月に向かって思う |
今週末は上映会があるのに何か冷静穏やかな私である。こんなことは初めてである。それが何故なのかはおそらく今後ハッキリとしてくるだろうとおもう。きっと昔だったら、電話をかけたり、一人でも多くの人に見てもらいたく躍起になっていたとおもう。
多くの人に見てもらいたいとは思うものの、来る人はやってくる、位の感覚でこの数年は企画している。はなはだ恐縮だが、22年間近く、ささやかに企画を続けてきて思うことは、特に同世代の感性的先細りは、いかんともしがたくメタボになってきているという現実を私は感じている。
話は変わる。フィリピンのレイテ島周辺の台風被害のニュースは、とてつもない規模であったことが伝えられている。そして思う、人は食べ物がなくなったら、狂気の世界にゆかざるをえない、という厳しき現実である。行列してまっていれば食料が届く世界とは全く、事情が異なる。
数日前から、畑で葱の収穫をしているのだが、充分に食べられても、出荷できない葱は畑に返される。まだほんのわずかではあるが畑で働くようになり、安心な食べ物のことを、以前にもまして考えるようになってきた。芸術や文化的な世界でしか、物事を考えて来ない狭い思考の私だったのだが、農の世界の、アグリカルチャーの方に大きくシフトしてゆく自分を感じ始めている。
そして思う、毎日毎日食べられる賞味期限を過ぎた、夥しいあらゆる食料が大量のゴミとなって捨てられているこの数十年の日本社会の現実、かなりの原料が海外からの輸入である。私が口に入れるかなりの食べ物も。おかしいと感じたら、自分から動かないとやはりだめである。
短い朝のブログでは、私の胸の内のもやもや矛盾を伝えられることは叶わぬにもせよ、何か書かずにはいられない。キリギスの海面上昇にせよ、今回の台風にせよ、もうかなり安穏とはしていられないくらい、水の惑星は悲鳴をあげている、そのことを一人の今を生きる人間として、どう受け止めればいいのかということを、五十鈴川だよりを書きながら考えてしまう。
水の惑星に住む、七十億もの人間が、とにもかくにも飢えない世界が果たして可能なのか。
61歳の初老のおじさんは、畑で生まれてくる葱の命のもとの香りにつつまれながら、ハムレットのように、何をしたらいいのか、いけないのかと、不毛のような絶対矛盾的問がやまない。
飢えたことがない私は、飢える情況というもの空恐ろしさを、想像力する。結果飢えないためには、自分で少しでも作物を作るしかないと考えている。
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