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2013-11-03

ガーデニングにいそしむ母と妻を眺めながらブログを書く朝

左からメル・母・妻

11月3日の朝ブログ。今にも雨が落ちて来そうな雲行きの中、昨夜から泊まりにきている母と妻は仲好く朝から家庭菜園にいそしんでいる。私は窓からときおり二人の様子を眺めながら、チケットの郵送や、遠方の知人や、友人に手紙を書いたりしている。

 

家の中にメルがいると、落ち着いて雑巾がけが出来ない。幸い妻が外にいる時は、必ず一緒にいてくれるので、この時とばかり私はわずかな時間自分の仕事の前、雑巾がけをする。働き始めてからなかなか雑巾がけまでは手が回らないので、土日の休日の自分の仕事の前には、極めて小さな儀式のように気分転換も兼ねてやっているのである。

 

ブログもそうだし、新聞の切り抜きもそうだが、一端決めるとやり続ける癖のようなものが、ようやく30歳を過ぎてから持続するようになってきた。

 

まだ振り返りたくはないのだが、やはり富良野で過ごした、2年半の生活が私のひ弱かった精神と肉体をかなり鍛えたことはまず間違いない。それと21年間夢が原に通ったこと。

 

ガーデニングや、家庭菜園もそうだが時間がかかることに喜びを見出すような感覚は母を見習うように退職後努めている。自分のことは自分が一番よくわかるのだ。

 

なにしろ私は小さいころから何をするにつけ、身体が弱かったせいも多分にあるのだが、根気がなにをするにも伴わない、軽佻浮薄を絵にかいたような子供だったので、その自分の弱点を少しずつ、矯正したいという思いがいまだにトラウマのようにあるのである。

 

シェイクスピアシアターで、アルバイトと眠る合間に、ジンマシンが出るくらいあけても暮れても台詞を暗記した訓練も、知らず知らずに根気を養ってくれたのだと、今は思う。脳トレ(好きな言葉ではない)なんて言葉が聴かれるが、生きてゆくこと自体が脳トレではないのかと、いう気が私はしている。

 

いまだ、自分の本質的なものは、極めて故郷の日向的というか、牧歌的ぐうたらものぐさ(もちろん私だけですが)なのである。世の中に出てかなり鍛えられたとはいうものの、自分で自分を持て余すこと、タガが外れる自分は、いかんともしがたい。

 

でもまあ、なんとか家族のおかげで、身過ぎ世過ぎをしている自分と、これからも付き合ってゆかなくてはならない。軽佻浮薄は治らなくても、歳を重ねる中で、何事かを静かに見つめてゆく感覚を忘れたくはない。

 

 

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