くどくどとは打たないが、春の4月30日のハレノワでのスパイラル・アームズの公演は名古屋、京都、大阪はライブハウス、香川と岡山は地元の有志で担当、全5ヶ所をツアーする。私は最後の公演地の岡山の窓口を引き受けている。
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波乱万丈サイコーにカッコいい人 |
私に共通フライヤーに対する期待のようなものがあったがゆえに、最初から岡山は単独バージョンのフライヤーでゆけばよかったと今は思うが、明らかに私の判断ミスである。とはいえまだ時間は十分にある。またひとつ学んだと思えばいいのだと、自分に言い聞かせる。
ハレノワに定員300人、岡山では知名度のないスパイラル・アームズを集客するのは至難である。だが、あの今は伝説的でさえある土取利行さんが、スパイラル・アームズを率いてハレノワにやって来るのだ。伝説ではなく現役バリバリの奏者として。
その岡山での仕切り、窓口を、土取さんと出会ってから46年になる私が依頼されたのである。(26才、子供だった私も少しは成長したのだ)うすぐ73歳になる私が、(熱くなる)のもやむを得ないというしか言葉が浮かばない。
そういう想いは私だけではない。中世夢が原以来、10数年ぶりにタッグを組むSさんも同じである。紆余曲折の果て、Sさんと同志的再会、福岡のKさんや鳥取のMさん(想像してもいなかった大口のカンパをしてくださった)東京のM子さん、岡山のジャラン等々がまるで我がことのようなアクションでハレノワでのスパイラル・アームズを支援してくださっている。もうビックリありがたいという言葉しかない。
なぜイベントを、企画を、私は仕事でもなく、70歳から再び再開し始めたのだろうかと、時に考えたりもしてしまう、が理屈も秘密もなにもないというのが、今の私の答えである。もっとカッコつけて、敢えて言葉にするなら、生きているからである。そして敢えて打っておくが、私を奮い立たせるのは土取利行さんばかりではない。今は亡き私の両親をはじめ、私がこれまでの人生で直接であれ、間接であれ出会え大きな影響を受けた方々が、次々におなくなりになっている。その方々が私に見えないエネルギーを与えてくださっているのである。
ときどき父が1999年、死ぬ半年前に書いた文章【 私は生きている】 を読み返す。もう26年前の文章である。まだ長女は9才である。私も人並みに年を重ねその文書が沁みて、私を鼓舞する。
家族をはじめとする、友人知人、いわばお金では図れない、私のいわば全人的交遊財産の感謝の念が、私を奮い立たせるのである。理屈抜きに土取利行さんスパイラル・アームズの公演を全身で見て聴いて体感してほしい。ただそれだけである。何としても満席にしたい。命のフライヤーが必須である。
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