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2019-03-26

第一回シェイクスピア作品輪読会【間違いの喜劇】を終え、そして想う。

歳を重ね、身体が変わるともちろん意識も変わる。肉親ほか近しい方、あったことがなくても、同時代を生き、影響を受けた方がお亡くなりになると、いやでも私自身のお迎えを、考えてしまう。

私がつたなき五十鈴川だよりを書き続けるのは、多分、いい意味でメメントモリ、死を想像することで、いま生きている生を充実して生きることに、ほんのちょっとでも、プラスになりはしないかとの、煩悩ともいうしかない淡い願望が、あるゆえではないかと、考える。

五十鈴川だよりを書き綴って8年目に入るが、8年前のおのれとは確実に変化し続けている。長女は大学生だったし、シェイクスピア遊声塾もなかった。世は常ならず、先のことは、私自身にもわからないのである。

さて、これから8年後を想像してもせんないことである。そのようなことを考えてしまうのが、現代人である私のいわば宿業のようなものなのかもしれない。(今日の新聞に先日お亡くなりになった市原悦子さんにお別れの言葉を渡邊美佐子さんがお書きになっていた、ヒトは、見えなくなるのである)

さていつものように、話題を変える。第一回のシェイクスピア輪読会を何とか終えることができた。そのことを何としても、五十鈴川だよりにわずかでも記しておきたい。

男性3人(私を入れ4人)女性4人計7名の方が、わずかな情報(チラシや新聞で)で参加してくださった。たまたま3月24日はシェイクスピアの命日であった。(いい時間が流れました参加してくださった方々心より感謝します。皆さん素晴らしかったです)

間違いの喜劇は、シェイクスピアの作品の中では最も短い。私はシェイクスピアがこのような作品を書いていたのを知ったのは、25歳の時に初めて海を渡り、自費英国留学を一年半していた時のことである。

ロンドンでは演劇観劇三昧、夜ごとRSCの劇場の出掛け(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)そこで【間違いの喜劇】を見た時である。演出はトレバーナン、(すごい演出家)ミュージカル仕立てに演出されたその作品の愉しかったこと、2度私はみた。

帰国後、私は27歳になっていたが文学座の養成所を最年長で受かり、その一年後シェイクスピアシアターに入り、文学座の養成所で講義を受けた小田島雄志先生の翻訳の間違いの喜劇が出版され、何と私が父親役イージオンを演ずることになろうとは、もちろん思いもしなかかった。運命は流浪変転する。

書き出せば切りのないくらいくらい、思い出深い芝居、間違いの喜劇は私にとってはかけがえのない青春時代のシェイクスピア作品、そして愉しい観劇体験のベストスリーに入る作品である。ストーリーはシンプル。

幼少期船が難破、父と母双子の息子と二人の召使が生き別れになり、やがて成人となり弟とその召使が兄探しの旅に出たまま7年も帰らず、父親が息子を探しに諸国遍歴、とある国交を断絶した国にたどり着き、双子の取り違えで面白く劇が展開、最後は一族再会、めでたしめでたしの、シンプルこの上ない劇というより、お芝居である。
人間は間違う器である

だが、この短い初期の(処女作ともいわれている)作品には、その後もっともっと人間の実在の根源に 向かう天才シェイクスピアの本領の萌芽が随所にみられる。

愛と嫉妬・誤解・家族・孤独・人間の存在の在り様の危うさ等々、考えようによっては深刻な問題が、限りなく豊かな言葉使いで(シェイクスピアが創った文体・言葉の表現力)魔法のように愉しい物語の中であっという間に展開して、終わるのである。

長くなるので端折るが、シェイクスピアほど、【生と死】をお芝居という嘘、枠組みの中で、かくも 楽しく、かくも時に残酷にその実在を刻んだ劇作家を私はほかに知らない。

この年齢でなぜ輪読会をやろうと思ったのかはよくはわからないが、間違いの喜劇の父親のイージオンのように、悔いなく命を生ききろうとするエネルギーにどこか私もあやかりたいのである。

そのような、私とどこか思いを共有できるできるような方とシェイクスピア作品の輪読を通じて、出遭いたいとの内なる希望がいまだ澎湃とわいてくるのである。

ともあれ、思い付きで第一回は無事に終わった。いつまでできるかわからないが、とにかく第二回は4月28日である。

有限なる時間、これからは再び焦点を絞って少しでも深くシェイクスピア作品を味会う時間を大切にしたいと念う、そのことを五十鈴川だよりに書いておく。







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