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2019-03-02

絶対矛盾を往復する初老の私

あっという間に土曜日の朝がきて、昨日夕方五十鈴川だよりを書いたばかりだというのに、一晩寝たら新鮮にパソコンに向かう自分がいる。

オーバーだが書くことで、なにがしかの心身の調節を図りながら、一日一日を過ごしてゆきたいという、ささやかな初老男の揺らぎの顕れと、いうしかない。

一日に一回自転する惑星に生きられる、ありがたき感覚を、朝の時間帯は体が特に持っているような気がするから、私はほとんどの五十鈴川だよりを午前中書いているのだと思う。

ところで、家から歩いて約15分くらいのところに、図書館と運動公園があり週に2,3回運動公園に愛犬メルを連れて、それ以外にも本を片手に散歩に出かけるのだが、五十鈴川だよりを書いたら出かけようと思っている。

その公園に鉄棒があり、ゆけば必ずぶら下がるのだが、還暦を超えてから、ぶら下がってからの私の一番苦手な懸垂というものをやっていなかったのだが、弓のために、筋力の持続のために、この2年近く毎日ではないが続けている。

回数は5,6回にとどめ、無理せず持続することを心がけている。ほかにもおまじない、ささやかな儀式的なトレーニングを自分に課している。持続するコツは無理をしないということである。
妻が誕生日にプレゼントしてくれたペンケースと愛用の万年筆

以前も書いた、村上春樹さんにとって走ることは悪魔祓いだと書いておられたが、比するもおこがましいが、何事かに向かう時のささやかなおまじない的、所作である。

人間は(特に私は)怠惰な (年相応どこかにそれを肯定する自分もいる)惰眠をむさぼりがちな(眠ることが好きであり)生き物であるが、シェイクスピアの言葉を声に出すには、どうしても体力がいる。でないと気力も生まれえない。

だから、絶対矛盾を抱えながら深呼吸しながら鉄棒にぶら下がり、公園を歩きながらぶつぶつ声を出し続けるのである。

集中して30分も声を出し続けると、何やら体のどこかが覚醒して、身体が生き生きしてくるのがわかる。だからこの感覚がある間は声が出せるのではないかとの淡い願望がある。

日々細胞更新的に流れる、五十鈴川だよりでありたいし、どのような時代も、故郷の地を絶えず静かに流れる五十鈴川に、今日もあやかる私である。

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