いくら忘れやすいといわれる日本人の 一人のわたしであっても、ボケない限り決して忘れることはない。私にとっての身近な死者はやはり両親の死である。
父が2000年、母は1998年に亡くなった。歳を重ねるとともに、両親のことに想いが及ぶようになってきつつあるのは、五十鈴川だよりをひも解けば自明だろう。父のことはたびたび触れているが、母のことに関してはあまり触れていない気がする。
何故だかはわからない、が今後は折々母のことも書きたいと、思うようになってきた。何度書いた記憶があるが私は鬼のように怖い厳格な父と、慈母観音のような母との間に育ったのだなあ、といましみじみ感じる。
だから平衡感覚が保たれ、変な道に染まることもなく、何とか生き延びて 来られたのだと思える。
私は母に叱られた記憶がほとんどない、小言なども。父と母は今の北朝鮮の平壌の近くの新義州で二人して小学校の先生をしていた。突然の敗戦、ロシア兵にすべて奪われ、3歳の姉と生後半年の兄を連れて、命からがら引き上げてきた。
帰国後母は専業主婦となり、その後3人の子供を産み、5人の子供をきちんと育てた。宮崎市内の大きな旅館の長女として生まれ、実母は母が幼いころに他界、その後妻が 入った。詳細を生きているときにもっともっと聞いておくべきだった、と今にして思うが、かなわなかった。
後列左から2番目が父 |
ただ、育ちが良かったっことは、何枚かの遺された幼いころの写真を見てよく分かった。日曜学校にも通っていて、よく讃美歌を口ずさんだ。粗野で貧しい育ちの父とはまるで違って、精神的な事はともかく、経済的な苦労はほとんどしないで、当時の高等女学校を出ている。
ほんわかのんびり、お嬢さん育ちの雰囲気はいくら貧しくても生涯きえることはなかった。
苦学して、日本が統治していたソウル師範学校を出た父と縁あって写真見合い、結婚して北朝鮮で二人して教師をしていたのである。教えていた子供のほとんどは朝鮮の子供たちである。
きっと、両親が教えた 子供たちは北朝鮮のどこかで、今も生きているはずである。先日の帰省で、次兄から貴重な北朝鮮時代、父が務めていた昌城公立普通学校の、昭和13年3月の卒業アルバムを、お前が持っていろと手渡された。
職員、先生13名のうち日本の男性が6名、朝鮮の男性が5名、女性2人である。その中に若き日の父の姿がある。父が結婚する前だから母の姿はまだない。昭和13年、敗戦の7年前だから運動会や遠足も、まだどこかのんびりしていて、たのし気な様子がうかがわれる。
朝鮮の先生や子供たちとも穏やかに生活して居た様子がわかるが、あきらかに異国の子供に日本の教育をしていたことが見て取れる。
父はその後母と結婚、束の間ではあれ、夫婦二人して異国で天国のような、日本を離れての新婚生活ができたのであろうことが想像できる。
だが敗戦と共に、地獄のような引揚体験と共に、戦後の苦難の生活を必死で生き抜き、見事に5人の子供を育て上げたのである。
入院先からもらった母からの最期の葉書 |
今読むと一段と感動する。このような母を持てたことが私の宝である。
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