傍には、いっぱいのコーヒー、静寂そのもの、これが唯我独尊的にたまらない。静かにパソコンのキィをたたいていると、なにがしかの一文がつづりたくなってくるのは、つまりは生きているからである。
話を変える。もうあと一週間もすれば、初孫の望晃くんが1歳になる。私と望晃くんの年齢さが縮まることはない。昨年生まれて間もない3月下旬、東京は稲城に住む娘たちのところで、しばしの滞在をした。
早朝、毎日のように咲き始めた稲城の見事な桜並木の下を、リア王の本を片手に歩いた日々を思い出す。望晃くんが生まれてから、自分の中での何かが必然的に変容した一年間であった。
デュランれい子さんの御本初めて読んでいる・面白い |
というのは、どこかにこれからはずっとおじじとして(の役割をどこかに持って)生きてゆくのだという意識が芽生えたからだろう。
5年もたつと、私は古希を超え、10年経つと77歳、15年後は83歳である。父が亡くなった年齢を超えることになる。
だから、五十鈴川だよりを書くのである(という気がする)、見えない何かに向かって。漸く年相応に私も落ち着き、時代の動きやはやり、ほかのことに 左右されず迎合せず、肝心なことにのみ、焦点を絞って生きてゆこうと決めたのである。
望晃くんや、家族ほかの大切な人たちの未来を見据え、長いスパンで、物事を地面の近くから 、おじじとしてのこれからを考え巡らしながら、生きてゆきたいと殊勝に思うのである。
娘たちが、私を親にしたように、望晃くんが私をおじじ意識に変えたのである。私のささやかな当面の夢は、望晃くんがもうちょっと大ききなったら、故郷の五十鈴川で遊ぶことである。
そのためには、おじじは何としても健康であらねばならない。そのために、これまでの自分の生活をよりシンプルにし、よりいい意味でストイックに生きねばならない。
若いころのようには動けない身体を、ゆっくりと動かしながら、静かに天の下地面の上での時間を大切にしたいと、想う。
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