何をしていたかというと、竹韻庵に初めて植えた玉ねぎの収穫と、家で発芽しつつある5種類の枝豆の移植である。
かなりの暑さの中、母と私は熱中症に気を付けて、休み休み、冗談を飛ばしあいながら、体を動かし続け、なんとか2つの大事な作業を終えることができた。
収穫作業の大変さと、終えた後の爽快さ、喜びは、やったものにしかわからない何かである。竹韻庵に初めて植えた玉ねぎは、ほとんどが小さな球での収穫となったが、刻むとピリリと目に染みてきて、十分に玉ねぎであり、我が家でいただくには申し分なく、妻がひとしきり喜んでくれた。
なんとも個性的な不揃いの形大きさの玉ねぎ |
またしても、玉ねぎの吊るし方を始め、いろんなことを母から教わったが、自ら体を動かし体得した知恵の重みの言葉に、私は ただただ耳を傾けた。
母の指導の下、なんとか枝豆の移植も終え、何度も何度も大きな柄杓で水を運んで植えたばかりの苗に水をあげた。
竹韻庵には水道がないが、水場があってそこにかろうじて水が在るので、時間はかかるが繰り返し運ぶしかないのである。農の仕事は、はなはだ足腰を動かす根気がいるのだが、それを完遂できないと、収穫には至らない。当たり前のことである。
単調さの繰り返しの中で、ヒトは高見に至れる。何たる単調さの奥深さ 。それに気づくまで、私の場合相当に寄り道、回り道をしたが、それもまた致し方なかったと今は思える。
植えるときと、収穫するときだけは機を逸すると大変なことになる。天気予報とにらめっこである 。
竹韻庵に通うようになって、夏で2年になる。単調に笹の根を採り続けて開いたわずかな土地に、作物が生育してくれる喜び。
土はいまだ私を鍛える、動ける限り土を耕し、自分という無二のからだと向かい合い、自分の中に思わぬ自分が発芽してくる意外性を、と夢見る。
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