でも、本当は何も書かなくてもいいのかもしれない、との思いも一方では抱えながら、いつも書くところの絶対矛盾抑えがたく、煩悩的揺らぎを、行きつ戻りつしながら、何かめにみえない律動に動かされながら書いている。
でもまあ、煩悩的(絶対的に語彙が少な自分をいつも感じながら)に揺らぐということが、生きている証であり、老いながらの、わが命の行き着く流れの変化を、かろうじてギリギリ書き続けられればとの念いである。
どのような一文であれ、自分の一文が書けることは幸せである。いつも、つましくもささやかに書けることの幸福感につつまれながら五十鈴川だよりは流れる。
おそらく今まで書いてきたからからこそ、今後も緩やかな蛇行変遷を重ねながら、健康であれば書き続けられる、気がしてうれしい。
日々命の放射 を繰り返しながら、命は入れ替わり、自分という存在は移り変わっていく。変化する日々、自分も変化しながら、何か今を新鮮に感じないと、私の場合の五十鈴川だよりはなかなかにながれてくれない。
いつものように、話は変わる。昨日母から電話があり、ラッキョウが売りに出されていたから、漬ける気があれば買ったらとのことだったので、さっそく泥付きの(なんと宮崎県産だった)を買ってきて、母の指導の下に漬けた。
ささやかに自国の生活文化を身に着けたい |
ラッキョウをつけることも還暦後に始めた 楽しみの一つである。私は必ず泥付きのを買うようにしている。なんどもよく洗い根を切り、薄皮をむき、熱湯をくぐらし鷹の爪を、お好みの量入れ、市販の酢を入れれば出来上がり、きわめて簡単である。
ラッキョウをつけたのち、早めの昼食を済ませて、 弓の素引きの稽古に出掛けた。道場には私ひとり、時折夏の日差しが照り付けるまぶしさのなか、約一時間自分の体と向かい合いながら素引きの稽古を淡々と繰り返した。
この歳で7キロの弓をひくことから始め、3ヶ月が過ぎ、漸くにして いま9キロの弓をひいている。K氏に頂いた弓が14キロだから、それをひけるようになるのはいつのことになるやもしれぬのだが、そんなことは何も考えず、ただ今日できることをするまでである。
なにやら最近いい意味での老いを感じる。焦らなくなったというか、焦りようがなくなったという方が近い。ただ単に思いつくやりたいことを、やれる順番に循環しながら日々を送って余計な心に負担を感じるようなことにはとんと、足が向かなくなりつつある。
限りなく 決まりきったことを、淡々とやり続ける。父母のような晩年生活を、そして西大寺の母が今やっているような暮らしに限りなく近づいてゆきたいと願うようになってきつつある。
そんな日々の暮らしを芯にして、世の中を眺め一隅できちんと暮らせたらいうことはないのだが、そうはとんやがおろさないのが世の常、ある日何かが突然起こるのが歴史の常。(そうは簡単に老いさせてくれない絶対矛盾を往復する)
老いてゆきながら、世界の片隅で、そっと世界の出来事(オンエアされない側の)にもかすかに耳を澄ませたい。 その努力を続けたい。
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