ページ

2017-06-10

夜明け前の五十鈴川だより。

5月はなにやらいっぱい五十鈴川だよりを書いたのに、最近ちょっとペースが落ちている、きっと何か理由が自分に中に在るのだろうとは思うが、多分書くことよりもほかに優先してやりたいことが、だんだんと増えているからだろう。

やはりこれまでの生活で一番異なるのは、弓と季節的に土に向かう時間を割くことが増えたがために、その分どこかが減ってきているのである。

何度も書いているが、還暦後はひたすらあるがままに、自分の内なる声にできるだけ正直に過ごしたいのである。他者の声とか、他者の言や知識に刺激されながらも、あくまで無理せず、自分らしく過ごせれば、それでいいのである。自分の奥の細道を静かに循環する五十鈴川。

例えば昨日はどのように過ごしていたか。5時に起きて身支度、すぐ竹韻庵にゆき野菜の様子を見てから、手鎌で約2時間草刈り、竹韻庵で朝食、おにぎり、ばなな、リンゴ、お菓子。

家に戻り雑事を片付けたのち、着かえて徳山道場にゆき1時間半素引きの稽古、もどってちょっと少し遅めの昼食(ちなみに昨日はお蕎麦、昼は8割麺類)、食後少し昼寝ののち、読書そうこうしていると、妻が仕事から帰ってきた。
本をもってふらりと旅したくなります。

夕方メルの散歩と、買い物。7時3人で夕食。食後母が親戚から頂いた小さな梅のエボを取り、ようじで刺し、洗い1.8リットルの容器に梅酒をつけたら午後9時。

昼間とは違う本をもって横になると、あっという間に睡魔に襲われ、深き眠りの世界にといった按配。一言で書けば、健康に動ける身体であちらこちら移動しながら、動と静を 繰り返している私の日常。

弓と野良仕事は、とにかく体を(対極的な動かし方だが)使うので、良き疲れを伴うのである。特に水曜と木曜は、これにシェイクスピア遊読が加わり、3つを循環すると、もう何も書く気がおきないほどに、何度も書くが良き疲れに体が浸され、夕飯を終えると夢間の世界にいざなわれるのだ。

というわけで、五十鈴川だよりを 読んでくださっておられる方には、はなはだもうしわけなく思うものの、更新がなされていなくても広い心でお許しあれとお願いするしかない。

とくに弓を始めたことは、多面的に生活全般に良き影響が生じている。よもやまさかこんなに入れ込むことになろうとは、自分自身思いもしなかった。

この3つは、還暦後に始めたことばかりである。自分がいつまで生きるかわからないが、父の年齢までもし私が生きるとしたら、まだ相当生きないといけない。

そう考えると、これまでの経験や知恵に立脚しながらも、あらたなこれまでやったことがないことに時間を費やし、ささやかなお金で、高齢化時代を日々新鮮に生きるがためにどうしたらいいのか、初老の私は老いつつハムレット的に、うれしく悩むのである。






0 件のコメント:

コメントを投稿