還暦後、とくに夢が原退職後は可能な限り自燃(じねん)に流れる五十鈴川でありたいので、たまたまこういう次第になっている。
コメントのほとんどない五十鈴川だよりは、ほとんど自問自答の、日々の移ろい、揺らぎを感情のおもむくままに綴っているので、もし五十鈴川だよりを開いてくださっておられる方がおられたら、更新しない、古い五十鈴川だよりを、無作為に読んでくださるとありがたい。
ところで、2泊3日の先の上京旅は、自分自身の現在(変化)が、ことさらにしっかりと確認できた旅となった。
還暦から5年が経ち、五十鈴川だよりを書きながら、ゆるやかに緩やかに変化してきた自分をはっきりと確認できた。
歌の文句ではないけれど、自分がたどり着きたいと思う向こう側にたどり着くには(よしんばたどり着けなくても)何度も何度も、自分のかぼそき体で泳がねばならないが、ようやくにして、少し向こう側にたどり着けたかのような気持ちなのである。
だが、努々油断してはならない、自分自身というどうにも厄介な器とこれからも、五十鈴川だよりを書きながら、自問自答しつつ日々を送らねば、それは砂上の楼閣のように、うたかたのように危うい、何かなのである。
ともあれ、その危うい己を自戒するのに 、声を出すこと、土に向かうこと、65歳から弓を始めたことが、はなはだ有意義であることを、痛感している。(その豊かさを実感できることが)
だからなのかもしれない、五十鈴川だよりを書く頻度が減っても、なにやら私の日々の暮らしは、どこか落ち着いて穏やかさをたもっていられる。
そして、私は老いてゆきながら、ますます私の中の多感期、昭和の原体験的な田舎世界に回帰してゆきつつ、何とか、今という時代のさなかを、かろうじて泳いでいるといった按配なのである。
何度も書いているとは思うが、この表層的なあまりに目まぐるしい、ぐるぐるハイテクデジタルテクノロジー時代の中に在って、揺らぐおのれの肉体に、可能な限り最後までしがみついて、地に足をつけ、お日様と共に、生活できれば、もう私は十分なのである。
わが愛する神田古本屋街についてはまたいつか書きたい |
さて話は変わる。18日、葉山の神奈川近代美術館で【砂澤ビッキ展】の最終日に何とか間に合って、作品に向き合って大きな世界に触れ、アイヌの末裔の彫刻家の骨太の作品世界を初めて知った。
直接体験から得る情報のみで、洪水情報に疎い暮らしをしているので、砂澤ビッキという芸術家のことを私は知らなかったが、東京に住むH氏が先月わざわざ私を訪ねてきてきて、その際に展覧会のチラシをくださったので、なにか動かされるものがあって、葉山まで出かけたのだ。
かなりの雨の中ではあったが、出かけてとてもよかった。身体が濡れ記憶に残る展覧会となった。19日午後、上野で異次元を生きているかのようなH氏と再会、あなたのおかげで砂澤ビッキ展に行くことができた旨、つたえたらとても喜んでくださった。
H氏と2時間近くお話した後、神田の岩波ホールでアンジェイワイダ監督の遺作【残像】を一人で見て、夜娘夫婦と久しぶりに一緒に夕食、レイ君が父の日の翌日ということでごちそうしてくれた。その夜は娘のところに世話になった。
20日、夕方の新幹線の時間まで 、上野の東京都美術館で開かれている【ブリューゲルのバベルの塔展】にゆき、3時間ほど過ごし神田に移動、古書店で文庫本を2冊買って後、私の好きな書店東京堂で蜷川さんに関する本、正岡子規に関する本を買い、そこのカフェで時間まで過ごし東京駅に移動、5時前に新幹線に乗り、車中ずっと今は亡き蜷川さんの本を読んで帰路についた。
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