田舎者丸出しの私が、18歳で上京後世の中に出て、いきなり小さな演劇学校に紛れ込んでしまった私は、先生はじめ年上の人たちから、あまりのおのれの無知さゆえに、いきなり怒涛のような聞いたこともない言葉の洗礼を浴び、自分を見失いそうになったことがある。
それから二十歳までの3年間の日々は、今思い出しても、まったくあらゆることに自信がなく、その渦の渦中を、よく耐えきれたものとおもう。いまでも本人にしかわからない苛酷な青春の日々を生きている人たちが大勢いるであろうことは、想像に難くない。なんとか自分を信じて生き延びてほしい。
いきなり朝からこんな書き出しになろうとは、自分でも思いもしなかったが、文章を書いていて面白いのは、まったく思いもしないことを書いてみたくなることに在るのかもしれない。
最近偏見を持たずいろんな方の御本を読んでいる |
一文の書き出しで、次の一文が生まれる。五十鈴川だよりは、何か依頼されて書いているわけではなく、日々確認的、自己流雑記録風一文なので、気楽に書けることがあり難い。
さて昨日日曜日は、午前中天神山文化プラザで月2回、4月から始めた、シェイクスピア遊声塾の番外レッスンの日だった。
参加者は塾生のIさん一人だったが、二人だけでそれなりに充実した、(ロミオとジュリエットのテキスト)レッスンができた。
2か月4回でシェイクスピア作品を一作ずつ読んでゆこうとの想いなのである。気楽にどなたでも参加してほしいと思う。
ところで、書き出しの小さな意外性に戻るが、昨日のレッスンには意外な見学者が来てくださった。徳山道場での弓の教室でともに学んでいるO氏である。
氏は30代半ばくらいの年齢であるが、入ったばかりの私に気軽に声をかけてくださるので、 何とはなしに言葉を交わすうち、私のやっている遊声塾に関心を持たれているので、気軽に誘ったら、なんとほんとに来てくださったのである。
冷静な好奇心のある方なのでお誘いしたが、だれでもは誘わない。好奇心(ある意味で本能的な直観力で)こそが私のこれまでの 人生時間を有意義な方向へと導いてくれたのだから。
他者の言葉(私にとってはシェイクスピア作品や数多の多分野の文学作品などから)から啓発され 、学び、それを自分の言葉として租借血肉化しつつ、今をかろうじて生きている私である。
O氏は、私がささやかに畑をやっているというと、畑にも興味があるとのことなので、竹韻庵にもお誘いしようと思っている。
シェイクスピアは言っている、好奇心は高貴心であると。
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