驚いてばかりはいられない。すぐ私は動く身体を動かした。一昨日の日曜日、この時期に 植えなければいけない、ナスやトマト、ピーマン、シシトウ、オクラの苗を、わずかだが買ったので、畑地をほっくり返し草を抜き肥料をいれ、
S氏が(久しぶりに共同作業をしたが、ともに同じ時間を過ごすことで関係性は深まる)たい肥場の落ち葉を(2年物)まんべんなくまいて耕運機で撹拌した。
なんとか午前中で、植えられるように整地したので、ブログを書きあげたら、午後から雨の予報なので植えに行く予定だ。
作物を育てるには、自然に寄り添わなければならない。夢が原退職後、土と遊ぶかのように、家庭菜園に生き生きと情熱を注ぐ母の姿を、間近に見ていた私は、最晩年をあのように過ごしたいとの思いから 始めた私の農の真似事は、早4年近くなる。
おかげさまで元気なので、母のようにはゆかず、ほかにもいろんなことをやりながら、土に向かっている次第であるが、確実に自分でいうのもなんだが、微妙に自分が変化しつつあるのを感じている。
この変化しつつある という感覚、(生まれてから今もそうだが、絶対矛盾を抱えながら変化し続けている)いい方向に老いてゆきつつ変化しているという感覚が持てるということが、自分にとっての希望であり救いであり、面白さなのであるということを、思う。
還暦以前の私は、ほとんど、ほかのことに時間を使い、企画やそれにまつわる多大な雑事に、忙殺されていた、(でもそれがあるから今があるのだ)といっても過言ではない生活を自ら望んで、それを生きがいのように過ごしていた感があるが、土に向かうようになってからの4年間で、じんわりと内なる変化が起こっている。
いまのところ、この内なる変化に寄り添って、今後はただひたすら、自分らしく存在することにしか、関心が 向かわないのではないかという気もするが、土に向かえば向かうほど、以前は読まなかった本を読むようになったり、、これまた自分でいうのもなんだが、知的な営為は深まってきている自分がいる。
だから、一日が面白く過ぎてゆくし、存在していることの生き生き自由感がなければ、五十鈴川だよりなど、臆面なく書けるはずもない。
ともあれ、なにやら体が喜んでいるなと思える間は、毎日は無理だが五十鈴川だよりを書けるのではないかと思うし、揺れ動く身体と心を引きずりながら、今を生きる右往左往ぶりを一庶民としてつづれることもまた 喜びというほかはない。
赤玉の命いただき春がある |
いかにお金に頼らず、面白おかしく(ときにつらくとも)晩年時間を過ごすかは 、自分の心と体の発す
る声に従うしかないと考える、自分らしきものがいる。
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