そうなのだ、当たり前のことなのだが、このわたくしごときの小さき世界で出遭った、深くはお話したこともない何気ない方々の存在が最近妙に私の中で気になり始めている。なぜなのだろか、との思いが深まっている。
グロスは徳山道場の近くに在る、ということもあるが、あのお店の御主人どうしているかなあ、との思いが私の中に湧いてくる何かが、ご主人の雰囲気に在ったということだろう。
街にこういう小さき一徹のご主人のカラーがはっきりと何気なくあるお店があるのが私にはうれしい。
先日久しぶりに桑江さんの個展のお知らせ葉書サイズを、置いてもらうべく立ち寄ったのだが、置いてくださるだけではなく、もう二か所置けそうなお店にわざわざ持って行ってくださった。
こういうまさにいい意味での意外な展開が起こる一日というのは、ほのぼのとした幸福感が私を包む。
さて、今日は次女の誕生日で、あさっては母の誕生日ということで、二人まとめてのお誕生会を今夜ささやかにすることになっている 。
母と次女は5月生まれなので、いつも蔓バラが満開の時にお誕生会になる。二人はとても仲がいい。
ほぼ満開今朝の蔓バラ |
とはいうものの、とりあえず今年も蔓バラは見事に咲き誇り、穏やかにささやかに家族でのお誕生会ができることをお祝いしたく思っている。17年間も続いていることがうれしいのだ。
ところで、前回も書いたことだが 、いよいよもって、可能な限りこれまでの人生を振り返りつつ(私はこれまであまり人生を振り返らなかった)ゆっくりきちんと丁寧に歩みたいとの思いが深まってきた。(ほんとうに人間は考える葦である)
それは弓をいきなり始めたことにも表れている。命の有限さが、身体でかすかにわかるようになってきつつある今、この動く身体を可能な限りきちんと動かしながら、やがて動かなくなる時に悔いなく備えたいとの念いなのである。
だから、逢ってお話がしたい相手には悔いなくお会いしておこうとの思いなのである。それと自分の無知さというものをこの年齢であらためて知るにつけ、残りの人生時間(特に世界の歴史)を謙虚に学びたいとの思い。
日本や西側での、いわゆるG7の大国の出来事は大きく報道されるが、報道のかたより、命の偏重は尋常ではない。物事にはやはり理が在る、佐藤優氏が繰り返し説くように、相手の内在的な論理を知らないと、情緒的な報道に感情が流されてしまう怖ろしさ、自分をまず懐疑しないとまずい。
国の根幹である憲法や 教育勅語なるものがいかなる歴史の上に制定されてきたものであるのかさえきちんと知らなかった。江戸時代が終わり、紆余曲折を経て制定された明治憲法しかりである。
戦後7年間アメリカに占領 され、敗戦国として東京裁判で裁かれ、憲法が制定され、私がが生まれた年に日本として返還された。再び日本国となり65年なのである。
ともあれ、 ささやかに生きる庶民の一人として、五十鈴川だよりを書きながら、謙虚に知り学ぶことの大切さが身に沁みる初夏の朝である。
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