あまりにも低い投票率選挙で選ばれた、多数を占める政権与党のおごったこの数年の多数決方法は、あまりにすべてのことが拙速であるとしかいいようがない。目に余るから、前期高齢者もブログというきわめて個人的であれ表現の自由を生かさない手はない。もったいない。
国民がそのような議員を選んでいるのにも、問題があると私は思うが、(何度も書いているが)やがてつけは、大多数の人民が負わされることになる。(無関心と想像力のなさが問題である)
オーバーではなく、このような前期高齢者が 、静かに物思う、表現の自由でさえ危うくなる、超監視プライバシー、他人の目を伺う、それこそはやり言葉、忖度しかねない。(すでにそのような気配がある)生き苦しき予感がある。見ざる聞かざる言わざるでは、後々大変なことになる。
スマホであれ 、なんでもいいから個人的考えをきちんと表明することを、放棄しては情けないというほかはない。あまりにも長いものに巻かれろでは、私は個人的に悔いが残る。
憲法に明記されている、表現の自由が生きているうちは、前期高齢者であれ何であれ、もの想う心をきちんと自分の考えをのべておきたい 。私は共謀罪に反対である。このような法律を作ってまで、テロにおびえながらのオリンピックにどのような価値があるといえるのだろうか。
もうこのことに関しては、くどくどとは書かない。話題を変える、妻が丹精している我が家の蔓バラがそろそろ咲き始めた。まだ咲き始めたばかりなので、そのうち写真でアップしたい。
蔓バラ以外にも何種類かのバラがわがやにはさいている |
人間界のあまりの雑多な問題や、ニュースとはまるで無縁、初夏の花バラ。我が家蔓バラが在るだけでこの10年、どれほど心が癒されたことか。取り立てて出かけなくとも手の届く範囲に季節折々の花々を我が家でささやかに愛でることができることの幸せを、歳と共に感じる。
すべては妻と母が丹精しているおかげである。老いてゆきつつ手の届く範囲のささやかな幸福を深めてゆけるかいけないか、がこれからはとくに大切な晩年時間だと私は考える。
こんなことを書くのはいささか面はゆいのだが、還暦を機にいささか大いなる反省をし、生き方をシフトチェンジしつつある私だが、65歳を機に再びその大いなる反省の上に立つ生き方を、もう一段深めてゆきたいと考える最近の私である。
花々は旬を過ぎたら静かに散りゆくからこそ、ひとはそのはかなき潔き姿、美しさに、私を含めた大方の日本人は、もののあわれを感じ取るのだろう。畏敬する藤原新也さんは書いている。枯れ落ちた、落ち葉も美しい、と。
地球誕生から、38億年の命の変化の上に、今の我々は存在している(らしい)。直立原人から数百万年、生と死の連鎖の動的平衡の上に、命が在るのだという不思議を福岡先生の御本で知った。
経済原則の名のもとに、あまりにも美しき日本の国土の変容はいかばかりか。人間の脳はあまりにもモンスター化し、お金脳になり、私もまたその渦の中をさまよわされ、泳がされている。
だがかろうじて、それがすべてではなく、いくらお金があっても、なくてもバラひとつ思うがままには、咲かすことはできないのだ。
このままでは、人類はどのような未来に行き着くのか、暗澹とするのは私だけではあるまい。小学生だってわかる。昨日も13歳の中学生がいじめを苦に自殺した。
命をいただき、命に感謝することを、教育の現場で先生がきちんと教えられず、家庭でもそういった、まずなによりも命の尊さが教えられないとしたら、おおよそ文明国とは言えないのではないかと、私などぼくねんじんは、考えてしまう。
学校での成績はさっぱりの私ではあったが、この年までかろうじて生き延びる ことができたのは、両親の厳しくとも、愛情のあるしつけがあったおかげだと年齢を重ねるごとに、親に感謝している。
思いやりや、繊細な感情はいかにしたら育つものか。難しい問題ではあるとは思うが 教育勅語や道徳を説くだけでは、まず無理なことは明らかである。
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