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2017-05-30

母のおかげで無事に玉ねぎの収穫作業を終えることができました。

日曜日を挟んで3日連続母と共に日中のかなりの時間を共に過ごした。特に昨日は母が8時半くらいに自転車で我が家にやってきて、9時に竹韻庵に向かい、ついてから夕方4時まで結果的に過ごし、我が家に5時過ぎに戻ってきた。

何をしていたかというと、竹韻庵に初めて植えた玉ねぎの収穫と、家で発芽しつつある5種類の枝豆の移植である。

かなりの暑さの中、母と私は熱中症に気を付けて、休み休み、冗談を飛ばしあいながら、体を動かし続け、なんとか2つの大事な作業を終えることができた。

収穫作業の大変さと、終えた後の爽快さ、喜びは、やったものにしかわからない何かである。竹韻庵に初めて植えた玉ねぎは、ほとんどが小さな球での収穫となったが、刻むとピリリと目に染みてきて、十分に玉ねぎであり、我が家でいただくには申し分なく、妻がひとしきり喜んでくれた。

母がてつだってくれなかったら、1日で2つの作業はできなかった。まず玉ねぎを抜き、葉の部分を飛ばし、根を伐るという単純作業をしながら、玉ねぎを数時間干し、最後に袋に詰め、畑から車が置いてあるところまで、何度も担いで運んで一連の作業を終えた。
なんとも個性的な不揃いの形大きさの玉ねぎ

またしても、玉ねぎの吊るし方を始め、いろんなことを母から教わったが、自ら体を動かし体得した知恵の重みの言葉に、私は ただただ耳を傾けた。

母の指導の下、なんとか枝豆の移植も終え、何度も何度も大きな柄杓で水を運んで植えたばかりの苗に水をあげた。

竹韻庵には水道がないが、水場があってそこにかろうじて水が在るので、時間はかかるが繰り返し運ぶしかないのである。農の仕事は、はなはだ足腰を動かす根気がいるのだが、それを完遂できないと、収穫には至らない。当たり前のことである。

単調さの繰り返しの中で、ヒトは高見に至れる。何たる単調さの奥深さ 。それに気づくまで、私の場合相当に寄り道、回り道をしたが、それもまた致し方なかったと今は思える。

植えるときと、収穫するときだけは機を逸すると大変なことになる。天気予報とにらめっこである 。

竹韻庵に通うようになって、夏で2年になる。単調に笹の根を採り続けて開いたわずかな土地に、作物が生育してくれる喜び。

土はいまだ私を鍛える、動ける限り土を耕し、自分という無二のからだと向かい合い、自分の中に思わぬ自分が発芽してくる意外性を、と夢見る。



2017-05-29

シェイクスピア遊声塾の日曜日午前中のレッスンに、弓道教室のO氏が見学に来てくれました。

小さな意外性の積み重ねの持続、ということによって得られる自己満足的力というものを、はなはだもって私は信じる、がそれは、これでいいのか、いけないのかということを、自分の中に問い続ける、といった営為と同義でなければならないと思う。

田舎者丸出しの私が、18歳で上京後世の中に出て、いきなり小さな演劇学校に紛れ込んでしまった私は、先生はじめ年上の人たちから、あまりのおのれの無知さゆえに、いきなり怒涛のような聞いたこともない言葉の洗礼を浴び、自分を見失いそうになったことがある。

それから二十歳までの3年間の日々は、今思い出しても、まったくあらゆることに自信がなく、その渦の渦中を、よく耐えきれたものとおもう。いまでも本人にしかわからない苛酷な青春の日々を生きている人たちが大勢いるであろうことは、想像に難くない。なんとか自分を信じて生き延びてほしい。

いきなり朝からこんな書き出しになろうとは、自分でも思いもしなかったが、文章を書いていて面白いのは、まったく思いもしないことを書いてみたくなることに在るのかもしれない。
最近偏見を持たずいろんな方の御本を読んでいる

一文の書き出しで、次の一文が生まれる。五十鈴川だよりは、何か依頼されて書いているわけではなく、日々確認的、自己流雑記録風一文なので、気楽に書けることがあり難い。

さて昨日日曜日は、午前中天神山文化プラザで月2回、4月から始めた、シェイクスピア遊声塾の番外レッスンの日だった。

参加者は塾生のIさん一人だったが、二人だけでそれなりに充実した、(ロミオとジュリエットのテキスト)レッスンができた。

2か月4回でシェイクスピア作品を一作ずつ読んでゆこうとの想いなのである。気楽にどなたでも参加してほしいと思う。

ところで、書き出しの小さな意外性に戻るが、昨日のレッスンには意外な見学者が来てくださった。徳山道場での弓の教室でともに学んでいるO氏である。

氏は30代半ばくらいの年齢であるが、入ったばかりの私に気軽に声をかけてくださるので、 何とはなしに言葉を交わすうち、私のやっている遊声塾に関心を持たれているので、気軽に誘ったら、なんとほんとに来てくださったのである。

冷静な好奇心のある方なのでお誘いしたが、だれでもは誘わない。好奇心(ある意味で本能的な直観力で)こそが私のこれまでの 人生時間を有意義な方向へと導いてくれたのだから。

他者の言葉(私にとってはシェイクスピア作品や数多の多分野の文学作品などから)から啓発され 、学び、それを自分の言葉として租借血肉化しつつ、今をかろうじて生きている私である。

O氏は、私がささやかに畑をやっているというと、畑にも興味があるとのことなので、竹韻庵にもお誘いしようと思っている。

シェイクスピアは言っている、好奇心は高貴心であると。





2017-05-27

84歳と連日ともに体を動かし思うこと。

昨日竹韻庵で半日以。母と共に、ミョウガを植えたり、種から育てたネギの移植をしたり、それが済んでからは玉ねぎ畑のマルチをはがしたり、手鎌で草を刈ったりと、存分に老々コンビで体を動かして過ごした。

そして、母は夕方再び我が家にやってきて、娘と母とのお誕生会を夜、ささやかに祝った。東京の娘やレイさんからもお祝いの品が、娘と母に届き、スカイプなどして、我が家は久しぶりに喜びの声につつまれた。

少しお酒を飲んだ母はそのまま泊まった。そして今日、起きてすぐ外に出ると、一週間前、5種類の枝豆の種を植えたのだが、それが芽を出していたのを妻が発見した。

妻も母も私も大喜び、種から芽を出す不思議さといったらない。3人一気に目が覚め、服を着かえて、我が家の庭のあれやこれやに動いた、まず近所のいつもゆく造園業者の方のところに冬に備え薪の材料を取りにゆき、(3回車に積んで帰った)、3人で下ろしてのち、ナンテンの樹、梅ノ木の剪定を済ませ、私は運んできた薪をチェーンソーでカット、その間妻と母はトマトの添え木をしたり、ばらの剪定や細かい仕事をやっていた。
トマトの添え木

運んできた樹木のカットが終わると、妻と母が薪をきちんと積む連係プレイ。

積み切れず手前にも持つんである、もう一か所にも積んである。
すべての作業を終え、おがくずもきれいに掃除して(これは山の畑にすきこむ)終えた時には12時を回っていた。

お昼を4人で済ませ、ゆっくりと休んでからブログを書いているのだが、本当に昨日から今日の午前中にかけて、久しぶりにフルに体を動かしてた。

正直こんなに体を動かす予定ではなかったのであるが、まさに今日などはタイミングが会ったというしかないくらい、母も妻も実によく体を動かしたので、わずか半日で、見事に庭が片付き、おそらくこの冬には十分に足りるであろう薪を見事に積み上げることができた。

正直、昨日今日とぐったりするくらい体を動かしたのは久しぶりなので、今も体がくたびれているのだが、何やら書かずにいられないほどに、貧乏性を生きている私なのだ。

正式には、明日が母の84歳のお誕生日だが、あれやこれ指示を出し、樹木を車から出したり、薪を積んだり、剪定した枝木を束ねたり、役に立つ間は体を動かすのだという気概にはまったく、恐れ入り谷の鬼子母神、といった按配。

昨日今日、連日母と過ごし、ともに体を動かしてみて思うことは、もう何度も書いているが、あらためてこのように、役に立つ年寄りになりたいものだということを再確認した。

だから、くどいが五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。我々3人がくたくたになりおなかを空かせていると、昨日24歳になった娘がお昼だよ、との声。

何気ない家族の支え合い。母の想いは孫に確実に伝わっている。私もそのような祖父さんになりたいと願う。家族全員の体が支え合い、動く 。それこそが幸福といわずしてなにおかいわんや。本日はこれにて。夜は弓の稽古の日である。

2017-05-26

65歳、無知のこわさを知る初夏の朝。

いきなりだが先日岡山は弓之町に近いお店、カフェギャラリーグロス(ここの御主人は私が企画したチラシを欠かさず置いてくださった心ある方) で求めた、おいしい夜明けのコーヒーをいただきながら書いている。

そうなのだ、当たり前のことなのだが、このわたくしごときの小さき世界で出遭った、深くはお話したこともない何気ない方々の存在が最近妙に私の中で気になり始めている。なぜなのだろか、との思いが深まっている。

グロスは徳山道場の近くに在る、ということもあるが、あのお店の御主人どうしているかなあ、との思いが私の中に湧いてくる何かが、ご主人の雰囲気に在ったということだろう。

街にこういう小さき一徹のご主人のカラーがはっきりと何気なくあるお店があるのが私にはうれしい。

先日久しぶりに桑江さんの個展のお知らせ葉書サイズを、置いてもらうべく立ち寄ったのだが、置いてくださるだけではなく、もう二か所置けそうなお店にわざわざ持って行ってくださった。

こういうまさにいい意味での意外な展開が起こる一日というのは、ほのぼのとした幸福感が私を包む。

さて、今日は次女の誕生日で、あさっては母の誕生日ということで、二人まとめてのお誕生会を今夜ささやかにすることになっている 。

母と次女は5月生まれなので、いつも蔓バラが満開の時にお誕生会になる。二人はとても仲がいい。

ほぼ満開今朝の蔓バラ
義理の父が亡くなってもう17年もなるのだがその間、次女と母のお誕生会は続いている、娘がやがて家を出てゆくことになれば、そのお誕生会もやがては叶わぬことになるのは、浮世の定め致し方ない。

とはいうものの、とりあえず今年も蔓バラは見事に咲き誇り、穏やかにささやかに家族でのお誕生会ができることをお祝いしたく思っている。17年間も続いていることがうれしいのだ。

ところで、前回も書いたことだが 、いよいよもって、可能な限りこれまでの人生を振り返りつつ(私はこれまであまり人生を振り返らなかった)ゆっくりきちんと丁寧に歩みたいとの思いが深まってきた。(ほんとうに人間は考える葦である)

それは弓をいきなり始めたことにも表れている。命の有限さが、身体でかすかにわかるようになってきつつある今、この動く身体を可能な限りきちんと動かしながら、やがて動かなくなる時に悔いなく備えたいとの念いなのである。

だから、逢ってお話がしたい相手には悔いなくお会いしておこうとの思いなのである。それと自分の無知さというものをこの年齢であらためて知るにつけ、残りの人生時間(特に世界の歴史)を謙虚に学びたいとの思い。

 日本や西側での、いわゆるG7の大国の出来事は大きく報道されるが、報道のかたより、命の偏重は尋常ではない。物事にはやはり理が在る、佐藤優氏が繰り返し説くように、相手の内在的な論理を知らないと、情緒的な報道に感情が流されてしまう怖ろしさ、自分をまず懐疑しないとまずい。

国の根幹である憲法や 教育勅語なるものがいかなる歴史の上に制定されてきたものであるのかさえきちんと知らなかった。江戸時代が終わり、紆余曲折を経て制定された明治憲法しかりである。

戦後7年間アメリカに占領 され、敗戦国として東京裁判で裁かれ、憲法が制定され、私がが生まれた年に日本として返還された。再び日本国となり65年なのである。

ともあれ、 ささやかに生きる庶民の一人として、五十鈴川だよりを書きながら、謙虚に知り学ぶことの大切さが身に沁みる初夏の朝である。


2017-05-24

思いもかけず、桑江良健素氏から晴らしい絵が届きました。

朝一番竹韻庵にゆく予定を立てていたのだが、起きてみたらなんと車の上に水滴がついている。予定変更することにした。

何事もほどほどのバランス、こうも暑い晴天の日が続くと、どうしても植えたばかりの野菜たちがどうなっているのかが気になるのだが、わずかではあれ恵みの雨である。

慈雨というが、このところ年齢をかえりみず動き回っていたので、どこか体にとっても恵みの雨なのである。

ところで最近意外な思いもかけないことが起こるということを書いた。桑江良健さんの那覇で行われる秋の個展の案内葉書に載せる一文を書いたことはすでに五十鈴川だよりに書いたが、先日その良健さんから素晴らしい絵のプレゼントが届いた。

まさに思いもかけぬとは、このことである。彼の住む近所の風景画、一番下に畑、間に海、島、半分近くが点である。

ささやかな一文のお礼にしては、過分な絵のプレゼントで恐縮した。私の拙文をことのほか喜んでくださったのである。

すぐにお礼の電話を入れた。豪放磊落な氏の声が聞こえた。日高さんの家には海の絵がないと思ったから、とのことであった。


この年齢になると、こころから語り合える友人の有難さというものが、私の場合、身に沁みてくるようになってきた。

度々書いているが、ほどほどに会いたいなあ、どうしているかなあ、と思える友人知人が10数人程度私の心のなかに全国にいる。

徳の至らない私にたいして、なんという心広き人たちの豊かな存在であることかと、しばしある種の感慨にどうしても打たれる。

いずれも世の中に出てから、出遭った方たちばかりである。中には若き日に激論を交わした方たちもかなりいるが、この年齢になると、すべてが懐かしく、私のささやかな人生を彩ってくださっている。

いよいよもって、これらの友人知人との晩年関係性を深めたいとの想いは、一段と強くなってきている。そういうことで、一念発起近々、20年近く前、西アフリカギニアのバランデュグ村(ジャンベの太鼓奏者のママディケイタのふるさと)まで旅したS氏を訪ねて、車で鹿児島にゆきたいと思っている。

しばらく前に頂いたS氏からのはがきに、宮崎まで帰ることがあれば、足を延ばしてほしいとの旨がかかれていたからである。

いろんな旅があるが、友を訪ねての旅はまた格別である。なんとかして実現したいものだとおもっている。


2017-05-23

バラの季節、初夏、夜明けの朝ブログ。

夜明け前のこの時間帯、がやはり一番好きなのは、ブログなる日々再生一文を書き始めてから、おそらく何十回も書いているかもしれない。
妻の姉の家のオープンバラガーデン。ひだりから次女・妻・母・姉はすごい

それはおそらく起きたばかりで、こころなるものが一番澄んでニュートラルだからだろうと思う。体がいまだボーっとして、取り立てて書くことが判然としていなくても、指を動かしていると何とはなしに今の一文が動き出してくる。

この感覚が、きっと私は好きなのだろうと思う。あまりに自己的遺伝子、自己愛的 に過ぎるかもしれないのだが、65歳の自由時間、絶対矛盾を抱えながら、いよいよ瘋癲老人的に、あるがままを風のように、一日一日を送りたく思うのだ。(できるだけ他者に迷惑をかけずに)

さて、5月だというのに真夏のような、暑さよりも日差しの強烈さが、こうもわが肉体を貫くようになると、私はその対策としてますますもって、早寝早起きをして体のコンディションに配慮するようになってきた。
姉の家には100種類のバラが咲いている。

この数年紫外線対策として、サングラスが手放せなくなってきた。印象風体が悪くなろうと、目をいたわり、動いてくれる身体を、ますます労わる様になってきつつある。

(声を出す塾を始めてから、悪かった歯も一年かけて治療し、いまも数か月ごとに検診しているのは、歯だけである)

 何事も、悪くなったり、なくしてみて身に沁みることばかりであるので、可能な限り転ばぬ先の杖的に、用心深く生きるように努めたいのだ。(何たるいいかげんな変化)

これは自分のためではもちろんあるのだが、家族に余計な心配をかけたくはないという、母から学んだことを少しでも実践したいからである。

特に私は18歳から無茶をしがちな、無理を承知の人生を選択しながら 歩んできたので体を酷使してきた。だからこれからはまったく逆に、身体をいたわる生活を心かけたいのである。命は有限で、命以上にかけがえのないもの(ふしぎなもの)は、この世にはない。

夢が原退職後の劇的ともいえる生活の変化で、おかげさまで健康体とまではゆかないが、睡眠さえきちんととれば、十分に動ける身体をいまだ持続できていることの有難さは、何度も書いている通りだ。

だから、今日もこれからおおよその大事は午前中に済ませ、日差しの強い熱い時間帯は、 家の中で過ごすことにしたい。

バラに囲まれご満悦の妻
PS・一昨日家族で妻の倉敷に棲む姉の家で、この十年続けら
来客に説明する姉、コンセルジュの資格を持つ
れている、バラのオープンガーデンに招かれて行ってきた。


このところ毎年のように行っているのだが、今年もまたその丹精ぶりに圧倒されるかのような、まさに咲き乱れる群舞を堪能してきた。

やはり、母の娘である。一途さの共通遺伝子が脈々と受け継がれている。

姉のバラの花の おかげで一族が集い、しばしの束の間親族再会時間が繰り広げられた。この場を借りてお礼を。おいしいコーヒー、パセちゃんありがとうございました。ご主人によろしくお伝えを。






























2017-05-21

母と二人初夏の竹韻庵時間を楽しむ。

夏を思わせる暑い日が続いている中、母とメルと私で、昨日午前中竹韻庵で、畑に肥料をまいたり攪拌したり、手鎌での草刈り、ほかに精を出し、正味3時間余りを過ごしたのだが、あらためてこの5月末に84歳になる、母の炎天下、元気で精力的な動きに驚かされてしまった。

とにかく、手が良く動くそのことと、丁寧な仕事ぶりには、あらためて脱帽した。最近妻抜きで、母と二人だけで、竹韻庵にゆくことが増えてきつつあるが、独学で年間通じて葉物中心の野菜を何十年も作り続けている母から、(今年は自宅の菜園場に玉ねぎも100個ほど植えている)何度も書いているが、学べるうちに学んでおきたいという気持ちが一段と湧いている今なのだ。

日差しが強いし、お昼前には帰る予定であったのだが、家に着いたのが午後一時半、遅い昼食となった。

妻が昼食を作って待っていてくれ、3人で食した後も母の動きはやまない。竹韻庵で最後に刈って持ち帰った、ヨモギの葉を茎からむしり取る、手間仕事を率先してやってくれた。もちろん私もともにしたのだが、最後の掃除に至るまで、非の打ち所がない動きの仕事ぶりには 参った。

昨日のブログでも書いたが、還暦過ぎて、いささか遅きに失した感は否めないものの、気づいた時から始める、(夢が原退職後から)いまではようやく夢が原での出来事が、いい意味で遠くに思えるほど、今の暮らしを楽しめている自分がいる。

それは今、自分がこの年齢で心からやりたいと思ったことを、この4年間何はともあれ、少しづつ実践しながら学んでいることの手ごたえが、あるからだと思える。

母曰く、あなたが本気だから手伝うのだといってもらえた時の嬉しさはなかった。晩年ライフは地味に静かに暮らすのだという覚悟が一段と深まった。

人間はたった一人でも、きちんとした味方がいれば、私のような単細胞はいろんなことに勇気をもって生きて、立ち向かうことができる。

妻のことも書きたくなるのだが、私のことは書かないでねと妻が言うのでほとんど書いていないが、出遭ってからの30年以上、私のやることに 理解は遠くとも、寄り添ってくれる妻の存在なくして、私の存在もないことだけはきちんと書いておきたい。
毎日共に暮らし、もともとは他人であったところから始まった、夫婦関係の奥深さは、いよいよもって新たなステージに向かうこの頃を、夫婦して実感している。

シェイクスピアを読むことと、弓は共有してはいないものの、土に向かい合うことを始め、ほとんどのことに共有し合えている関係性が持続できている。有難いことだ。

命は日々の新陳代謝の上に持続する。一番身近な関係性から、遠くに在る関係性まで、65歳を機に今一度きちんと自省し、リセットし、いよいよの晩年時間に向かい合いたいと、今私は考えている。

2017-05-20

共謀罪、衆院可決の朝に思う。

起きたばかりで新聞を取りにゆき、一面を見ると、共謀罪衆院可決とあった。。最近努めてというか、政治的なことにふれていないのは、長年ブログを書いてきて、身体がうんざりしているからだが、折々は五十鈴川で私の気持ちはきちんと書いている。

あまりにも低い投票率選挙で選ばれた、多数を占める政権与党のおごったこの数年の多数決方法は、あまりにすべてのことが拙速であるとしかいいようがない。目に余るから、前期高齢者もブログというきわめて個人的であれ表現の自由を生かさない手はない。もったいない。

国民がそのような議員を選んでいるのにも、問題があると私は思うが、(何度も書いているが)やがてつけは、大多数の人民が負わされることになる。(無関心と想像力のなさが問題である)

オーバーではなく、このような前期高齢者が 、静かに物思う、表現の自由でさえ危うくなる、超監視プライバシー、他人の目を伺う、それこそはやり言葉、忖度しかねない。(すでにそのような気配がある)生き苦しき予感がある。見ざる聞かざる言わざるでは、後々大変なことになる。

スマホであれ 、なんでもいいから個人的考えをきちんと表明することを、放棄しては情けないというほかはない。あまりにも長いものに巻かれろでは、私は個人的に悔いが残る。

憲法に明記されている、表現の自由が生きているうちは、前期高齢者であれ何であれ、もの想う心をきちんと自分の考えをのべておきたい 。私は共謀罪に反対である。このような法律を作ってまで、テロにおびえながらのオリンピックにどのような価値があるといえるのだろうか。

もうこのことに関しては、くどくどとは書かない。話題を変える、妻が丹精している我が家の蔓バラがそろそろ咲き始めた。まだ咲き始めたばかりなので、そのうち写真でアップしたい。
蔓バラ以外にも何種類かのバラがわがやにはさいている

人間界のあまりの雑多な問題や、ニュースとはまるで無縁、初夏の花バラ。我が家蔓バラが在るだけでこの10年、どれほど心が癒されたことか。取り立てて出かけなくとも手の届く範囲に季節折々の花々を我が家でささやかに愛でることができることの幸せを、歳と共に感じる。

すべては妻と母が丹精しているおかげである。老いてゆきつつ手の届く範囲のささやかな幸福を深めてゆけるかいけないか、がこれからはとくに大切な晩年時間だと私は考える。

こんなことを書くのはいささか面はゆいのだが、還暦を機にいささか大いなる反省をし、生き方をシフトチェンジしつつある私だが、65歳を機に再びその大いなる反省の上に立つ生き方を、もう一段深めてゆきたいと考える最近の私である。

花々は旬を過ぎたら静かに散りゆくからこそ、ひとはそのはかなき潔き姿、美しさに、私を含めた大方の日本人は、もののあわれを感じ取るのだろう。畏敬する藤原新也さんは書いている。枯れ落ちた、落ち葉も美しい、と。

地球誕生から、38億年の命の変化の上に、今の我々は存在している(らしい)。直立原人から数百万年、生と死の連鎖の動的平衡の上に、命が在るのだという不思議を福岡先生の御本で知った。

経済原則の名のもとに、あまりにも美しき日本の国土の変容はいかばかりか。人間の脳はあまりにもモンスター化し、お金脳になり、私もまたその渦の中をさまよわされ、泳がされている。

だがかろうじて、それがすべてではなく、いくらお金があっても、なくてもバラひとつ思うがままには、咲かすことはできないのだ。

このままでは、人類はどのような未来に行き着くのか、暗澹とするのは私だけではあるまい。小学生だってわかる。昨日も13歳の中学生がいじめを苦に自殺した。

命をいただき、命に感謝することを、教育の現場で先生がきちんと教えられず、家庭でもそういった、まずなによりも命の尊さが教えられないとしたら、おおよそ文明国とは言えないのではないかと、私などぼくねんじんは、考えてしまう。

学校での成績はさっぱりの私ではあったが、この年までかろうじて生き延びる ことができたのは、両親の厳しくとも、愛情のあるしつけがあったおかげだと年齢を重ねるごとに、親に感謝している。

思いやりや、繊細な感情はいかにしたら育つものか。難しい問題ではあるとは思うが 教育勅語や道徳を説くだけでは、まず無理なことは明らかである。

2017-05-17

私が企画した土取利行さんの音楽会には遠路必ず駆けつけてくださったH氏と初めてお話をした。

【天と地の間には思いもかけないことが起こる】とシェイクスピアは、ハムレットに言わせている。このような書き出しで五十鈴川だよりを書き始めるのにはわけがある。

オーバーではなく私にとってはそれに近いようなことが、昨日の夕方起こったからである。実は10日くらい前、岡山を通過して香川に行く予定があるのでお目にかかりたいというお葉書をいただいた。

差出人はお話したことはない方なのだが、名前を記憶していた東京にお住いのH氏であった。氏は、私が企画した土取さんの 音楽会には遠路必ず来てくださった方である。

丁寧なお葉書だったし、私の予定もなかったので、昨日の夕方岡山駅で待ち合わせ、2時間ほど夕飯を共にし語り合うというか、もっぱらお話を聞くことに終始した。

私が聞き役に回って、お話を伺うということは少ないので、私としては実に珍しいひと時であった。そのいちいちを記すことは控えるが、H氏は今は亡き桃山晴衣さんから、三線を習ったことがあり手には三線を持っていた。

そのご縁で土取利行さんとも出会われたとのことであった。H氏は私と同じ年くらいなのだが、私よりずっと年長に感じられる雰囲気を醸し出されていたが、その独特さはいかようにしてうまれたのか、お話を聞いていて、いくばくかを想像することができた。

H氏は、私などとは違って純粋実直で、その一途さのゆえに、現代のような苛酷な世相では、実存してゆく難儀さが、半端ではないことが伝わってきた。


香川ではハンセン病に関する催しに参加するとのことであったし、広島の原爆絵図を描かれた丸木夫妻のお話や、水俣のお話、福島の子供たちのお話など、次から次に重い問題が氏の口から、私に向かって伝えられた。

このような話を、直接なぜ私に話されたのかは 知る由もないが、氏の中には何かを私相手に伝えたく、岡山で途中下車されたのだろうと受け止め、ただただお話を伺った。

実は氏との待ち合わせ時間の前、何故か私は石牟礼道子さんに関する本を探しにイオンの本屋さんに行ったのだが、私が求めていた本はなかった。

たまたま水俣のお話が出たので、その偶然性にちょっと驚いた。H氏はお体の調子があまりよさそうには見えなかった。何やら世界の多くの人があまり(私も含めて)関心を持たないような重要な思い問題に、敏感に反応する繊細さ、やさしさを十分すぎるほどにお持ちの方だった。

私のような、能天気朴念仁にではあれ、何かを伝えたく途中下車してくれた必死さ、氏の想いをいくばくか受け止めるのに、私に何ができるのか、何をしたらいいのか。考えたい。

氏は大切な資料を私に下さった。とりあえずいただいた資料をゆっくりと、しっかりと受け止めるべく読もうと思う。

時間を見つけて、東京でもう一度氏とお話をしたいと思っている。

2017-05-15

とりとめなき春の夜の真夜中ブログ。

弓道の先生が、まず体であるとおっしゃる。次にこころ、そして技であると。まったくそうであるなあ、と小生ごときも首肯する。

声を出してシェイクスピア作品を読むことも、まったくそうである。心とは、何かと 考え始めると、私のような能天気、単細胞は頭が痛くなってというか、頭が痛くなる永遠の謎というしかないが、魂というか、言葉ではいかんとも表現しがたい、意識の発露が人間の肉体には備わっている。もの想う心。

それが何故湧いてくるのかが謎であるのだが、謎は解明しても解明しきれないところにこそ、素晴らしいのだと、考える側に私は立つ。説明の遠く及ばない何かに導かれて、ヒトは生きて動いてゆく、そこにこそ人間の存在理由の摩訶不思議面白さがあるのではないか、と。(この歳になっていきなり弓を始めることもそうだ)

例えば、一昨日遊声塾の帰りに、朧月夜の満月が天空に見えた時、身体がただただ喜んだのだが、太古から人類は、その神秘感に幾度となく打ち震えたに違いないと、私は思う。でなければあまたの芸術や文学が生まれるはずがない。
妻に薦められ読み始めた私はあまり小説を読まないがこれからは多面的に読みたい


ところでわたくしごときではあれ、ささやかな感動の発露の自分との対話が、五十鈴川だよりとなって、吐露され、臆面もなく意識の流れが、言葉となって表出する。何かに心が揺り動かされる、揺れ動く間は、一文を紡ぎたく思う。

想えば、40歳で中世夢が原で仕事をするまで、私は人様の前にさらす文章を書いたことがなかった。今でもはっきり覚えているが、(どこかにあるかと思うので、いつか探してみます)朝日新聞に依頼され、岡山に移住したばかりでの、生活の変化をエッセイ風に書いたのが、最初の一文である。(以後たまさか依頼される)

それまで、ほとんど文章というものを書いたことがなかったのに、すらすら書けたのは、きっと書くことが、書きたいことがあったからだろう。

あれから25年の歳月が流れているが、時代はデジタル、ブログという体裁であれ、このように一文を書き続けられるのは、きっと体の中に棲む(心が澄んだ時間帯に湧いてくる)名状しがたいもの想う心という目に見えないものがあるからとしか言いようがない。

なぜバラは咲くのか、ヒトや物を想い、愛し、さすらうのか?そしてまた果てしなく憎しみ合うのか?永遠の命の謎だ。とりとめなき真夜中ブログになったが、ごようしゃを。

2017-05-14

睡眠の奇蹟に助けられ、五月の今日を感謝し生きる。

寝る前には本当にこれが65歳の体なのかと、(だということ)身に染みるくらいエネルギーを使い果たし、疲れてもう何もしたくないとおもえるほどの、日々の暮らしなのだが、ありがたいことにぐっすりと眠った翌朝、このように五十鈴川だよりが書ける今の暮らしを、私は苦楽している。

さて、今朝はブログを書きあげ次第家を出て、弓之町でちょっと弓の素引きをして、9時から12時まで月2回、日曜日の午前中天神山文化プラザでシェイクスピアを遊読する日である。

4月からどなたでも気軽に 参加できる(毎回千円で)シェイクスピアに親しむ声出し教室を始めたのだ。最初のテキストはロミオとジュリエットだ。今のところ宣伝もほとんどしていないし、塾生のみの参加しかないが、いいのである。(これからゆっくり宣伝したい)

塾生にももっともっとシェイクスピアの多くの作品を声を出しながら、理解を深めてもらいたいし、私自身も声が出せるうちに、悔いなくシェイクスピア作品を読みたいのである。

そして、何事もアクションを起こさないことには、新しいというか非日常的な新鮮な感覚は、なかなかに持続することが、私の場合難しいのだ。

日高さんの五十鈴川だよりは長いですね、とたまに言われるが、ごめんなさい、ほかの方のブログなるものをほとんど読んでいないのでよくわからない。何年も書き続けているうちに、何とはなしに今のような体裁に落ち着いてきたのである。ご容赦を。

文章を書くことも含め、ほとんどが我流、自己流、あるがまま流なので比較しようがありません。もういい年齢なのですから、他者にあまり迷惑をかけない範囲で、五十鈴川は利己的に静かに流れる。
作物の恵み命をいただく

ところで、我が家のわずかな菜園場は妻と母ががほとんど を管理し、昨日もトマトやキュウリなどの夏野菜を植えていた。その際最後のエンドウ豆を収穫したのだが、豆ごはんが歳と共に好きになってきた私は、今夜のまめごはんが楽しみである。

貴重な人生時間、身体をいたわり、ほとんど10時以降のテレビなどはみず、ひたすら寝るということの素晴らしさを今更のように実感しているが、それは寝ることによって生き返るかのような、新鮮な感覚が再び蘇るからだろう。

まさに睡眠の奇蹟というほかはないが、寝たきりというのはいかんともしがたく苛酷な世界である。動くから眠れるのだ。というわけで、いつも書いているように血が流れ、澱まないように、動ける体を静かに動かし今日もまた一日が始まる。

蛇足です、今日から 大相撲が始まる。私は相撲が大好きである。稀勢の里のファンである。

2017-05-13

母のように在りたいと思う、竹韻庵畑時間。

昨日母とメルと竹韻庵にいった。妻は仕事なので、母と二人での竹韻庵はもちろん初めてである。苗の植え替えとかを、直接指導してもらいたかったからお願いしたのだが、いいよと気軽に来てもらえたのだ。

夢が原退職後 、徐々に徐々に母とは関係性が近くなり、最近はかなり冗談を飛ばしあえるくらいの中になってきつつある。とはいうものの義理の母なので、実の母のような言葉遣いにはならない。

もうすぐ、84歳(85歳ではなく、私が間違えていた)になる母だが、いまだ自転車に乗って我が家にやってくるし、私に対しても、誰に対しても気を使い、一人生活がいいと、いう自立高齢者である。

高齢者に関する暗いニュースが枚挙にいとまがないくらいのご時世だが、事我が家に関しては有難いことに、いまは無縁である。

だが人生は一瞬先はわからない。そのことに思いをいたさないわけではないのだが、とりあえず今は有難きかなというほかはない。

さて、昨日の竹韻庵での、二人での園遊畑時間は、ことのほか楽しく時間が過ぎ会話の中で、またもやいろんなことが学べた。そのいちいちを書くことは控えるが、私がいつも感銘を受けるのは、土に向かい合うその姿勢である。
以前は読まなかったような本を少し手にするようになってきた

まさに幼稚園で、というと母に失礼に当たるが、身体全身で土遊びをするかのように、手で草を抜き、鎌で草を刈り、スコップで土を掘り、みるみる一定の畑周りをきれいにする手際の良さにはほれぼれしてしまう。

何事もすべては、頭ではなく体に沁みこんだ動きというほかはなく、84歳にしてこの動き、敬服に値する。体が動かなくなったと嘆く母だが、私から見れば御年にしては、十分以上の動きである。

あの歳できちんとひとり暮らしができ、いまだ我々の役に立とうとして気を使ってくれるのだから、見上げたものというほかはない。

足るを知り、丁寧に生きるという、はなはだ現代人にとっては難しい命題を母はすいすいとこなしてゆく。あなたたちの幸せが、私の幸せだという。脱帽である。

身近なところに、理想的な晩年生き方お手本があるということは、はなはだもってありがたく勇気をいただく私である。

今はまだ多様な煩悩を抱えながら、やがては母のような高齢者生活をと、願う私であるが、そのためには、ほんの少しでも母のように丁寧に日々を送ることを心かけるように、言うは易しである。



2017-05-12

私と、塾生6名でリア王を読む、そして思う。

GWが終わり、5月10日夜、遊声塾のレッスンが2週間ぶりに行われたのだが、このように塾生6名が全員そろったのは初めてのことではないかと思った。

想えば、遊声塾を始めて5年目、よもやまさか6名の塾生に恵まれる日がやってこようとは思いもしなかったので、その夜はやはりある種の私にしかわからない嬉しさに心がつつまれた。

そのような思いを抱きながら、私を含めて7人でリア王を群読したのだが、やはりこれだけの人数で読むと、なんとも言えず愉しい。塾生がいとおかしく、限りなく愛おしい。

最近、自分でいうのもなんだが、ささやかな小さな良きことが、日々の暮らしの中でつぎつぎと起こる。なぜなのだろう。ピーターブルックの言葉だが、秘密は何もない。

18歳で世の中に出てから、 世間の荒波を直に受け、そのきわめて個人的な艱難辛苦であれ、何とか乗り越えつつ、今を生きている私には、ささやかな喜びこそが大事、すべてなのである。

ささやかな喜びの積み重ねの大事、ちりも積もればの念じ方の、ゆくへいかんで、いかに人生は彩を変えることかと、痛感する。
23歳の時に買った素晴らしい辞典。こんなにも重宝する日がこようとは。

リア王4幕第一場、エドガーの言葉【 人間、運に見放されてどん底の境遇まで落ちれば、あとは浮かび上がる希望のみあって、不安はない。悲しい運命の変化は最高の絶頂からはじまる】

若い頃、なんどこの言葉を噛みしめたことか。人は人にすがり言葉にすがる。特に私はその傾向が顕著である。言葉の宝石が無尽蔵にちりばめられ、悪人であれ善人であれ、その言葉は今もなお私を魅了する。

シェイクスピアの豊饒、広大無辺の言葉を、私のか細い貧弱な肉体で表現する無謀さを、私は深く自覚しているが、それでもなお、リアをはじめとする多彩なあまりにも人間的な、根源的な登場人物の発する言葉の輝きは、400年前の言葉とは思えない。初老をしばし忘れて挑みたくなる。

リア王世界は、現代世界を映し出し照射する。 初老の体に息を吹き込み、シェイクスピアの言葉を繰り返し声に出しながら生活できることは、言葉にできない、まさに生きている喜びだ。

2017-05-10

土・声・弓を循環する65歳の今の暮らしを持続する春。

昨日五十鈴川だよりを書いてから、すぐに竹韻庵に5種類の苗を植えにゆき、一時間足らずで無事に植えることができた。
笹の根を除去し造った小さな畑

雨よ降ってくれと願っていたら、予報通り夕方からかなりのほん降りとなり、よかったと安堵した。苗を植えた後、午前中を弓道場で過ごした。

普通どなたかが弓をひいているのだが、どなたもおらず一時間半近く素引きの稽古を一人でして、帰ろうとした矢先、徳山先生ご夫妻が来られたので、これ幸い先生に素引きを見ていただけた。

弓の教室に通うようになってから、早くも3ヶ月が経つ、徳山道場の稽古場がようようにして体に少しなじんで きたような感じがしている。

正直、弓の稽古がこんなにもいろんな理にかなった所作と集中力と、基礎体力を要するものであるという認識も持たず、この年齢で弓道教室にいきなり通い始めるといった、無謀さを改めて感じながらも、徳山道場の先生たちの懐の深さに感謝しながら稽古を続けさせていただいている。

教室は、週一回にもかかわらず、道場があいている時間は、出入り自由、こんなところが、今の時代にあるという、このおおらかさが、私が悲鳴を上げながらも続いている大きな理由である。

それと以前も書いたが、先生はじめ 道場に通う方々のなんとも言えないお人柄に私は惹かれている。ユーモアがあり、まったく会話に無駄がないのである。

それともう一つ、所作は一朝一夕には身につかないのは当たり前だが、何よりも弓道は姿勢が良くなるということが、如実に感じられる。

それと呼吸が深くなるし、いやでも集中力が増してくる。これは声を出すにはまったくもって必要なことだから、弓の稽古は声を出す稽古にも大いに役立つのである。

基本的な日々の暮らしの要、 土、声、弓、が65歳にして揃った今の暮らしを、ことのほかありがたく受け止めている。

今日もこの3地点を、移動循環する。夜は2週間ぶりに遊声塾の稽古、動ける身体と心を持続したい。

2017-05-09

竹韻庵に夏野菜を植える準備をしました、そして思う。

昨日午前中、5月になって初めて竹韻庵に出掛けた。改めてこの季節の草木の成長や変化に目を見張った。

驚いてばかりはいられない。すぐ私は動く身体を動かした。一昨日の日曜日、この時期に 植えなければいけない、ナスやトマト、ピーマン、シシトウ、オクラの苗を、わずかだが買ったので、畑地をほっくり返し草を抜き肥料をいれ、

S氏が(久しぶりに共同作業をしたが、ともに同じ時間を過ごすことで関係性は深まる)たい肥場の落ち葉を(2年物)まんべんなくまいて耕運機で撹拌した。

なんとか午前中で、植えられるように整地したので、ブログを書きあげたら、午後から雨の予報なので植えに行く予定だ。

作物を育てるには、自然に寄り添わなければならない。夢が原退職後、土と遊ぶかのように、家庭菜園に生き生きと情熱を注ぐ母の姿を、間近に見ていた私は、最晩年をあのように過ごしたいとの思いから 始めた私の農の真似事は、早4年近くなる。

おかげさまで元気なので、母のようにはゆかず、ほかにもいろんなことをやりながら、土に向かっている次第であるが、確実に自分でいうのもなんだが、微妙に自分が変化しつつあるのを感じている。

この変化しつつある という感覚、(生まれてから今もそうだが、絶対矛盾を抱えながら変化し続けている)いい方向に老いてゆきつつ変化しているという感覚が持てるということが、自分にとっての希望であり救いであり、面白さなのであるということを、思う。

還暦以前の私は、ほとんど、ほかのことに時間を使い、企画やそれにまつわる多大な雑事に、忙殺されていた、(でもそれがあるから今があるのだ)といっても過言ではない生活を自ら望んで、それを生きがいのように過ごしていた感があるが、土に向かうようになってからの4年間で、じんわりと内なる変化が起こっている。

いまのところ、この内なる変化に寄り添って、今後はただひたすら、自分らしく存在することにしか、関心が 向かわないのではないかという気もするが、土に向かえば向かうほど、以前は読まなかった本を読むようになったり、、これまた自分でいうのもなんだが、知的な営為は深まってきている自分がいる。

だから、一日が面白く過ぎてゆくし、存在していることの生き生き自由感がなければ、五十鈴川だよりなど、臆面なく書けるはずもない。

ともあれ、なにやら体が喜んでいるなと思える間は、毎日は無理だが五十鈴川だよりを書けるのではないかと思うし、揺れ動く身体と心を引きずりながら、今を生きる右往左往ぶりを一庶民としてつづれることもまた 喜びというほかはない。

赤玉の命いただき春がある
ところで、昨日竹韻庵で初めて植えた赤玉ねぎを収穫した、球は小さいが、サラダにしてさっそくいただいたのだが、天地の恵み、自分で育てた赤玉ねぎの味は、思い入れ、幻想も含め、格別の味であり、そんじょそこらのレストランのサラダなど遠く及ばないのだということをまたもや実感した。

いかにお金に頼らず、面白おかしく(ときにつらくとも)晩年時間を過ごすかは 、自分の心と体の発す
 る声に従うしかないと考える、自分らしきものがいる。

2017-05-08

昨日岡山弁護士会が主催する、2017憲法記念イベントに妻と二人で出かけ考えました。

昨日岡山弁護士会が主催する、2017憲法記念日イベントに妻と二人参加してきた。まず先日の帰省旅もそうだが、この企画に妻と二人で参加することで、共通して同じ時間を持てることの、有意義性を改めて認識できたことを記しておきたい。

先日共謀罪の催し会場で今回のイベントを知ったのだが、タトルの【マイノリティって誰のこと?】というのに惹かれたこともあるが(私は自分のことをマイノリティであると認識している)基調講演をされた憲法学者の木村草太氏や、

自ら脳性麻痺であり、必然的にマイノリティの側から思考を継続実験されながら、未知の領域を開拓されておられる医師の、熊谷晋一郎氏、私も聞いたことがなかった自閉スペクトラム障害と診断され、同じように、マイノリティの側から多面的に、思考を継続されている綾屋紗月さんによる対談があるとのことで、興味が湧きお話を聞いてみたいと出かけた。一言驚かされた。

またチラシに写真は掲載されていないが、午後一時から4時50分までの開催時間のなかで、3時半からのパネルディスカッションに参加された、明石市の障害者・高齢者支援担当課長支援弁護士であり、自身も難病をお持ちの青木志帆さんのお話にも驚かされた 。

無知であるということは、まずいということをあらためて認識できただけでも出かけてよかった。

岡山に暮らしていると、なかなかこのような、マイノリティーの側から、すぐれた現代の病んだ難問題の未知の領域に果敢に挑戦し、実践しておられる方々のお話を一度に生で聞く機会はそうはない。

多岐にわたって考えさせられた催しを、岡山弁護士会が主催してくれたことに関して感謝したい。

内容についてまでは言及することは時間もなく割愛するが、マイノリティについて考えることは、おのれの現在に向き合い自分自身について考えることと同義であるという認識を、改めて持てたということだけは、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

この企画に、参加してくださった4人の方々のお話が(表情や声の調子もすべてを含む)直接聴けたことだけでも本当に出かけてよかった。

五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方々は、是非これらのすぐれたマイノリティのお仕事を知ってほしいと書かずにはいられない。

本当に時代状況は、複雑怪奇にみちていてややもすると、私なども引きこもりがちになりがちなのであるが、 毎度書いているが絶望は愚か者の結論である、自分でささやかに居場所を探究する努力を怠らなければ、すぐれて希望の持てるマイノリティに出会えるのである。マイノリティこそ、マジョリティに希望を与えてくれる存在ではないのかという認識の逆転がもてる、私にとっては刺激をいただいた催しとなった。

2017-05-06

老いゆくを知る帰省旅、のありがたさ。

故郷で3泊し、(2日~4日)昨日福岡の友人宅で、ゆっくりと素敵な手作りタイ風ランチ(京ちゃん絹ちゃんありがとう、逢えてよかったよー。)をいただき、久方の会話を楽しみ、午後6時過ぎ友人宅を後にし、その後は高速を休み休み走り、今朝午前3時妻と無事に自宅に戻った。

母(とメルと花)が 留守をきちんと守って迎えてくれ、全員すぐにひっくり返って床に就いた。

 目が覚めて熱いお湯を浴び、とりあえず五十鈴川だよりを、わずかでも書かねばとのおもい。妻と二人だけで帰郷したのは、初めてではないかと(子供に恵まれてからは)思う。

子供たちとは別行動でGWを過ごしたのも初めてではないかと思う。当たり前ですが、時間は非情にも流れてゆく中、夫婦二人での帰郷旅は、また何やら意義ある思い出深い旅となった。

身体は西大寺についているのですが、心の中がまだ旅の渦中にいるような塩梅で、冷静に文章をつぐむ状態にあらずといったところ。

でも私にとって、大切な五十鈴川だよりに、無事に帰ってきたことだけでも書いておこうと思います。今回妻が同行してくれたおかげで、思いもかけぬことが次々と起こり、私ひとりでの帰郷とはまるで異なる旅になったことだけでも、意義深い旅となった。

還暦を過ぎてから、帰郷の度に思うことですが、もうあと何回兄弟語らっての、小さい宴時間がもてるのだろうかと思う。幸い今回も姉夫婦、二人の兄夫婦と水入らずの時間を持つことができ、ささやかな幸福感を味わうことができた。
たった一人の姉が詠んでくれた歌

全員が何はともあれ、健康で再会できるということの、当たり前であるということの何という貴重さが、あらためて 、年齢と共にしみわたる再会旅であった。

姉が74歳、義兄が76歳で最年長、兄が71歳、義理の姉と次兄が68歳、次兄のお嫁さんが私と同じ年。

1998年母、2000年父が 他界して以来、おかげさまで私が帰省するたびに温かく迎えてくれる、これらの人たちの存在は、ありがたき幸せというほかない。

またこういう身内のささやかなありがたき幸せを、臆面もなく厚顔にも五十鈴川だよりに記せることも、然り。

昭和という時代を、ささやかにともに生き抜いたからこそ、そして全員が、おそらく今をささやかに平和裏に生きていられるからこそ、豊かな再会時間が紡げるのだと思う。

みんなそれぞれが、互いを祝福できるなんてのは、言うは易く行うは難し、なり。いま、私の年齢で思い至った感謝の念、忘れないように書き記し、次回もまた喜びの再会ができるように、平生の一日を大切に生きねばと思う。

最後に、故郷で詠んだ歌【五十鈴川 ほとりに立ちて 石を投ぐ 岸まで届かず 老いゆくを知る】