やはり聖なる日ではないが、ボーっとする日を週一くらい持った方が、私みたいな貧乏性には必要だ。ブログを書く前、湯を沸かしなおし朝湯につかった、最高である。
どなたかが書いていたが、一歩踏み出せるのは、片方の足が休んで いるからだと。まったくその通りで、目から鱗が落ちるかのように記憶化された。
さて、3月も今日で最後だ。自分でいうのもなんだが、65歳になってつきものが落ちたわけでもないのだが、気分が軽い日が続いている。何をしていても楽しいのである。
いいことかどうかはわからないが、以前にもまして生活がシンプルになって、同じことの繰り返し的な日々をたんたんと送っている。それができることがうれしい。
以前はいろんな出来事に、もっと敏感に反応していたようなことも、減ってきた感がある。(怒らなくなってきたというより、表に出さなくなってきた、老獪になりつつある)すぐに反応しないのである。がしかし、その分、ゆったりと、まてよと、考える自分は、以前よりも増えてきている、ように感じている。
生まれてきてからの永遠の謎、自分とは何かという、永遠の命題には、 ささやかにささやかに、思考を持続したいものだと考える、最近の私である。
気づいた時に学ぶのだ |
そこで、人生の達人であられると、かってに敬愛している外山滋比古先生の本を、頭がつかれているときには読む。(先生から教わって横になって読む)
先生が自分の体を通して見つけられた言葉の数々は、目からうろこ的に腑に落ちる。1923年のお生まれで、いまだ、読みやすい御本を出され続けておられるのには、驚嘆する。(驚かなくなったら終わりだ)
今私が読んでいるのは、87歳の時に書かれた御本だが、素晴らしい。実践に裏打ちされた果ての思考洞察言葉であるから、論理に弱い私なんかでも、フムフムと納得する。文体が独特で何しろわかりやすい。独学小学は楽しい。
どうしたら 、このような頭の柔らかさが持続できるのかを、一ミリでも学ばせていただきたいものだという思いが深まる。思考を整理し今日を生きる。
考える、思考する、書く、読む、動く、見る、触る、感じる、繰り返す、日々の切れ目のない、生命の連動 の中で、何かを思い続けるということは、老いてゆきつつある中での、大いなる一つの楽しみのであるとの認識が深まりつつある春である。