畑時間と、声出し時間、基本的に一年半ほどこのような暮らし、自分でいうのもなんだが実に充実した日々が送れている。
つくずく日本語を大切にしたいものです |
それもこれも、すべては過去の経験が下支えしているからこそなのだと、思い至る。
十二夜という芝居には、運命という言葉がやたらに出てくる。妻と出合ったのも運命。命を運ぶ器である人間。
登場人物たちは、何かわけのわからない感情に突き動かされながら、うわ言のように言葉を喋り捲る。
年齢的に私には、そのような人生の季節はとうに終わったはずなのに、いったいどういうことであろうか、いまだに、ときにうわ言状態に陥る自分を持て余してしまう。
若いとかそういうことではなく、生来的にご先祖から、父や母から受け継いだものであるから、あるがままになるように、五十鈴川はゆくというしか、言いようがない。
ようやくにして、すこぶる自由自在な人生のひと時が、訪れている今の暮らしを実感する。経済的な大変さは、十八歳の時から経験しているし、当時の大変さに比較したら比較にならない。
だからなのだと思う、漸くにして書ける、満ち足りていると。今しばらくののち、万が一私がお祖父さんにしてもらえたら、もう思い残すことはないという心境になるのではないか。
だが、人間の業は深い。きっと私もそのような、いい意味での業を引きずりながら老いてゆくような気が今はする。
ところで、このところ実に体調がいい。きっと体を動かし声を出し続け、母や妻が育てた野菜をふんだんに食べているからだと思う。
この数か月、私は毎日のように何らかの形でネギを食べ続けた。(理由は私のブログを読んでくださっている方はお分かりだから説明は省く) そして思う。あらためて命をキープする食べ物の大切さを。
岡山にやってきて二十三年母が菜園場で作った野菜をほぼ毎日のようにいただいているが、おそらく私が元気なのはそのせいだと、母には感謝の言葉しかない。
ささやかに、感謝のお返しに先日母の家のネギをふんだんに使ったカレーを私が作り、母を招いて 夕食を共にした。
美味しいおいしいといってくれる母に、私は胸の中で、わが家族がいい感じで穏やかに暮らせるのは、すべてあなたのおかげです、とつぶやいた。
いままで出会った人で、ありがとうをこんなに普段の暮らしの中で使うひとにお目にかかったことがない。この人の娘だから、妻もよく使う。いつしか私も感化されずいぶん使える自分がいる。
シェイクスピアなど読んだこともない母だが、その母から学ぶことは年を重ねるにつれて増えてきた。今は面はゆいので書くことは控えるが、いまとなっては、たった一人の親である母との時間をこれからは大切に過ごしたいと 思う。
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