このような観客が客席には座っているということの有難さが、しみる言葉がきちんと、感想のところに熟成されて示されていました。
以前わがブログで書いた記憶があるのですが、見ることはまた見られることでもあるという、逆説的真実です。ささやかに私の思いのつまった発表会を、きちんと受け止めてくださる方がいるということ。(残念ながらそういうアンケートはそうは多くはありません、でもそれでいいのです)
今でもそうですが、私自身がアンケートをその場では書けないのです。だから書いてくださる方には、のちほどの郵送を厚かましいかもしれませんがお願いしています。
これまでたくさんの自主企画を個人的レベルでしてきましたが、やはり素晴らしい観客に出会いたいという、私の思いが、いまとなっては支えになっていたのではないかと思えます。
だから、いまでもそのスタイル。切手をはって、手間暇かけてでも書いてくださるようなアンケートを私は待ち望んでいます。
私のブログにもほとんどコメントがないのですが、たまにあるからうれしいくらいに今は受け止めています。たくさん来たらきっと私は困ってしまいます。
話を戻して、いただいたアンケート何度も何度も読みました。なぜ私が遊声塾を始めたのかを、この方は、きちんと受け止めてくださっていました。
アフリカの音楽を説明する野暮なことより、ママディの太鼓を直に聞いてもらう、それが私の答えです。現代人はハートより、頭が先で私はそのような方が、ことのほか苦手です。(謙虚に学ぶということは大切なことですが)
シェイクスピアもそうですが、意味もさることながら、言葉の音に しびれてしまうようなところが私にはあるのです。あらすじ展開だけではちっとも私には面白くありません。
母の家に咲いている見事なフリージアをいただきました |
あえて言えばあの音韻の素晴らしい言葉(ずれや誤解で世界は成り立っている)に、今を生きる現代人のハートに届くような言葉を見つけて、痩せてはいても自分の肉体で 響かせたいというところでしょうか。
世界中にシェイクスピアのファンはいるでしょうが、私は単なるそのファンの一人にすぎないといった認識なのです。
そのようなささやかな個人的塾に、何故か塾生が参加してくださっている。それはきっと私が翻訳されたシェイクスピアの日本語を恥をさらして、自由勝手に愉しく読んでいるからではないかと、、、。
時代考証から、多面的にシェイクスピアを相当深く 学び、理解してから声に出して発表会をするのでは私には残された元気な時間があまりにも少ない、足りないといったところでしょうか。
還暦を過ぎたのですから、そう野暮なことは言わず、理解(誤解)と想像力の及ぶ範囲で、声を出して、ひたすら子供のように遊びたいといったところなのですから。
そういう私の遊び心に共振する、広い心をお持ちの方と 私はW・シェイクスピア作品を声に出したいのです。
何よりも私自身が現代という時代の中で酸欠状態に陥っているのを、シェイクスピアの言葉の力を借りて初老の肉体に言葉の酸素を送り込みたいのです。深い呼吸の体を生きることが、今私にとっては とても大切です。
0 件のコメント:
コメントを投稿