場所は西大寺の百科プラザの和室で。定年退職後、しばし私はこの部屋を使って一人の時間を過ごしていた懐かしい部屋である。
数年ぶりに使用したのだが、きわめて個人的な少人数でのレッスンには、この部屋はまことに持って安楽である。
畳なので、日本人である私には静かに落ち着いて本を読む、あるいは体を動かすには最適なのだ。
さて、M氏はネギがご縁で入塾された、これまた私にとっては機縁な方の一人なのだが、心優しき男子である。年齢は40代の初め。
この過酷極まりなき競争社会においては、氏のようなやさしさの持ち主は、生きづらいことがまま多いのではないかと、勝手に推測している。
二反の畑に一人で植えたチシャトウ |
入塾したばかりの氏が、シェイクスピア遊声塾でのレッスンで、今後どのように変化してゆくのか、はなはだもって私は個人的に楽しみにしている。
もう丸2年になる塾生の一人Y氏もそうだが、シェイクスピアの作品を読んだこともなく、
まったくこれまでの人生では縁なき世界から入塾してこられた方が、
意外といっては失礼だが、思わぬ持続力と変身を楽しんでいたりもするから、つくずく人間は意外性の器というしかない。
わたくしごときの人生であれ、まだ道半ばだが 変化し続けてきて現在があるし、変化する可能性を持続するというところにこそ生きることの妙味があるとさえ思う。そのことこそが私にとっては贅沢なことなのだと、自覚する最近なのである。
春の宵闇、男二人でただただ間違いの喜劇を読む。3階の和室に無心の声が響く、ほかには誰もいないので思い切って声が出せる。すべての煩悩から解放されるひと時。
二人での掛け合いのシーンだけを、メインにレッスンする。気の合う相手とのレッスンはうまいとかへたとかを、超越した楽しさが自然と生まれてくるのである。
子供に還って遊べるのである。 年齢もしばし忘れ、脳のシナプスが活性化してくるのが何とはなしに分かる。時折勢い余ってのどがつまったりもするが、これも生きてればこそと、楽しい時間をいつくしむ。
お互いをさらけ出して声をだして遊ぶ。やっていてわかる、このために自分は塾を立ち上げたのだということが。
この魑魅魍魎の現代社会の中にあって、この世に生を受け たまたま出会うことができ、ともに翻訳された日本語によるシェイクスピアの作品を、いま生きているからこそ読めることの老春至福感が私を包む。
M氏がわずかなレッスン時間なのに声が活き活きとし始める 。無心の稽古のなかからしか本当の声は生まれえない。うまい下手ではなく、生きたリアリティの感じられる声こそが、私には素晴らしいのである。
M氏とは時折、時間外個人レッスンを今後も重ねたいと私は思っている。人間とは摩訶不思議な不確かな実在である、だからこそ面白い。そのことを出会えた少数の実在と楽しみたいと思わずにはいられない。
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