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2015-04-02

遊声塾の仲間と生きた声を探す神聖な時間。

4月1日、昨日の夜シェイクスピア遊声塾に入ったばかりのYさんが、十二夜のト書きを読んでくださることになり、私も含め六人でのレッスンを何とかおえた。(五幕の途中まで)

すれすれの感じで発表会まで、あとわずかの時間しかないことを思い知らされている。入塾してひと月にも満たないのに、いきなり発表会にかり出された塾生の 心中を思うと、ちょっとかわいそうである。

しかし、私はあえて参加してもらうことにした。後年この経験はきっと忘れられない出来事として記憶に刻まれることになると、確信する。

全員でのけいこは、三回しかできずに本番を迎えることになるが,聴きに来てくださる方々にはかなりの忍耐を強いられることになるかもしれない。繰り返し寛容な心持、不出来な娘や息子の発表会に出かける気持ちできてください、とお願いしたい。

主催者の私は、いたって能天気にこの発表会を、勝手に楽しんでいる。入りたてのほやほやの塾生との稽古は楽しい。苦しいけれど楽しいというしかない時間を過ごしている。

あらためて、シェイクスピアの言葉に生命力を吹き込むことの難しさを声に出せば出すほど思い知らされる。うーむ大変だと体が悲鳴を上げる。

でもこんな経験めったやたらにできることではない。ともに声をだす仲間、共通感覚を 持てる仲間が増えたことが、稽古場の空気をかくも柔らかにする。

その嬉しさが、私をしてシェイクスピア作品の巨大な山に挑ませる。なんとも挑みがいのある作品であると思い知らされるのだ。

挑んでも挑んでも、跳ね返される。でも面白くかくも楽しいのだ。時折思いもかけない声を出している自分に気づくがこの瞬間こそがシェイクスピアを声に出して読む醍醐味である。

各人の声のぶつかり合いで、まるで千変万化する作品の面白さは、なんとも想像力を刺激してやまず、初老の私の体を活性化する。生きているとは?生きた声とは?
いまが満開の我が家のボケの花

まさに、人間は生まれて初めて息を吸い声を出し始めてから、息を引き取るまで声を出し続ける生き物であると、あらためて思い知らされる。

可能なら今しばらく、跳ね返されても、シェイクスピアを声に出して、自分自身を磨き続ける情動を持続したい。他者に声をさらけ出す中できっと思わぬ何かが立ち上がる瞬間を塾生と共有したいのである。

きれいごとだけでは味わえない、それは生きているからこそ味わえる神聖な時間なのではなかと、最近私は稽古場で考えている。

遊声塾を立ち上げなかったら出会うことはなかったに違いない仲間たちとの時間は、 宝石の時間である。

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