さて昨日のことを少し、朝一番朝日を浴びながら畑の草を草刈機で すこし刈ってから家に戻り、庭の薪を(もうストーブの季節は終わったので)邪魔にならない場所にかわした。
お昼を済ませてから少しうたたねをし(これが私の無上の楽しみ)まき割り30分のトレーニングをすると3時近くになっていた。
3時半から6時半まで、西大寺の百科プラザで4月1日に入塾したばかりのYさんと、3回目の個人レッスン。前回も書いた気がするが、仕事の関係でYさんは4月の水曜日は参加できないにもかかわらず、即入塾してくださったので他の日にレッスンをしているのだ。
自分の娘くらいの年齢といってもいいくらいの、若い方との二人だけのレッスンは私には初めてといってもいい。私が富良野塾で青春 の最後の日々を過ごしたころの年齢に近く、世代は異なるがどうしてもあの頃の、自分をいやでも思い出して、ある種の感慨にとらわれる。
年齢は戻れないものの、気持ちがなにか新鮮にレッスン できるのである。自分の中の邪心が消えて、自分で書くのも気恥ずかしいが、あのころの純粋な自分に還れる時間帯を生きているかのような心持にさせられるのである。
Yさんの声には、いい意味での無職透明な 声質が私には感じられるのだ。私が社会の中で生きてゆくために身に付けた精神の垢(時に自己嫌悪に陥る)を落としてくれるかのような。
よく、教えることは学ぶことだといわれるが、まさに 汚れちまった哀しみが洗い落とされるかのような感覚を、いただくレッスンなのである。
先週に続いて、ロミオとジュリエットを読み、長い芝居、膨大なセリフを二人で読み切った。映画ではあるが私自身を、W・シェイクスピアと国や時代を超えて出会わせてくれた、私にとっての記念碑的な作品。
14歳のジュリエットと、16歳のロミオが青春をまさに疾走する、悲劇。おそらく今も世界中の国々にこのような、若者たちが 存在しているはずだ。アラブでも、私は想像する。
だから、今もロミオとジュリエットの物語は上演される、が現代ほど私も含めて、グローバル化の中で、何やら心がお金という魔物で席巻されると、なかなかにリアリティが持ちにくい。
でもだからこそ、いまあらためて読むと、初老のおじさんは、大人という無理解な人種に自分が陥っている心が洗われるのである。
ひょっとすると、還暦を過ぎあのころに(もっと小さい頃も含め)還りたい症候群を、自分の中で昇華するための時間を過ごすために、塾を無意識にも立ち上げたのかもしれない、とさえ最近思うのである。
汚れちまったおじさんにとって、塾生たちとW・シェイクスピア作品を声に出して読む時間が至福のひと時になってきたのを実感する。
今日もまた心の鐘を打ちならし声をだす |
塾を立ち上げて3年目に入ったが、人との出会いが人を豊かにもし、その逆もまた在りうる人生の苦い真実。
シェイクスピアが人間を冷静に恐ろしいまでに見つめた言葉の数々は、いまを生きる私の胸を打つ。
あとどれくらい元気にシェイクスピアを声に出せるか、なんて余計なことは考えず、今レッスンできる目の前の相手との時間を大切に生きたいと思う私である。
五時半過ぎ、これまた入塾したばかりのM君がやってきた。二人には、間違いの喜劇の冒頭シーンを40分読んでもらってレッスンを終えた。
外に出るとまさに春爛漫のさなかの太陽が、まさに沈もうとしていた。おなかを空かせ家に帰ると、妻が瞬く間に夕飯をこしらえてくれた、感謝。
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