おととい西川で稽古に行く前に瞬間一人花見をしました |
昨日の朝は、発表会に来られた方のための拙文をブログで書き、A4に収まる形で長い文章を削って何とか、当日のパンフに織り込む拙文を書くことができ、正直少しほっとしている。
入塾したばかりのHさんが、ささやかに心のこもったパンフレット(今日完成する)を作ってくださったので、それに刺激を受けて拙文を一気に書き上げることができた。
人間の脳というか、記憶のひだはいったいどういうシナプスになっているのか、まったくもってわからない。
書くという行為によって、何かが紡ぎだされるように、記憶の糸がほぐれてきて40年以上も前の出来事も、つい昨日のことのようにさえ感じられるのは、不思議というほかない。
それにしても、確実に人生の残り時間が少なくなってゆくなかで、このような楽しい時間が送れているわが人生の今を、ブログという形でつづれるささやかなひと時は、至福だ。
それもこれも、つづりたいという情動が私の意識の水面下で流れ続けていて停滞ということをしていないからだろうと思う。
そのような生き方をやめないというとおかしいが、そういうことだと私自身理解している。自分にとって、矛盾するがつらくとも気持ちのいいことをやり続けるなかで、ある日何かが実現する、といったかのような。
この数日、疲れているはずなのに、珍しく遠足に行く前の子供のように、何回か夜中に目が覚めた。このようなことは私には珍しい。
シェイクスピアの作品には人生を肯定的にとらえ、祝祭性に満ちた作品が多い。晩年の作品は憂愁を帯びてくるが、十二夜は、油が乗り切ったころの傑作喜劇である。
現代人から見ればありえない途方もない展開 だが、なんともはや、おおらかですがすがしい。登場人物たちのセリフがこれまた浮いたよなセリフが多く、時に閉口するが、それもまた楽し、である。
現実から逃避するのではなく、芝居の中にこそ真実が埋め込まれているのだとさえおもう。よくもまあ、このようなある意味、嘘で塗り固めたような在りえもしない物語を書いてくれたものだと感謝する。
嘘に救われるのである。世阿弥は虚実皮膜の間といっているが、深遠なる言葉である。人間は現実時間だけでは、きっとおさまれる器ではなから、シェイクスピアはありえない物語の中に、真実を籠めたのだと私はおもう。
ともあれ、まだ35名の定員に、いま25名の申込みです。もしこのブログを読んだ方ご関心があれば、座布団持参でいらしてください。
0 件のコメント:
コメントを投稿