私が尊敬する演劇人ピーターブルックのドキュメンタリー映画のチラシ |
やはり書きたいことがある今の暮らしを 、唯我独尊的であれ記しておきたいという、ことなのだと思う。
さてまたもや遊声 塾のことを少し、発表会を終えて、昨日から本格的に塾はスタートした。テキストは、間違いの喜劇。個人的に意味もなく大好きな作品。
シェイクスピア作品の中で一番短く、 シェイクスピアが一番最初に書いた作品だといわれている。全編これ言葉遊びといった感じだが、理屈抜きに楽しいおおらかな作品だ。単細胞の私向き。
月に2回しか参加できない人もいるので、全員で読むのはなかなかにむつかしいのだが、昨夜は私も含めて、6人いたのでそれなりにいい感じでのレッスンができた。
3年目にして初めてといってもいい、6名でのレッスン。私にしかわからない喜びに満ちた時間が流れた。今もそうだが、私には無謀な塾を始めるといった認識があった。
よしんば塾生が 集まらなくても、最低3年はひとりでもやろうと心に決めていた。晩年時間一人静かにシェイクスピアを声に出して読むことの(読めることの)有難さを、自分の中ではっきりと自覚していたからである。
それと畑仕事、最低生活で最高の生活が自分の中では送れるという自信のようなものがあったからだ。私と感応できる酔狂な人間がきっと岡山いて、出会えるというかすかな自信も。
今塾生が7名、一人で読むのとは全く異なる時間が流れる。一人一人の声が稽古場に響き渡る。至らなさのすべてをさらけ出して (さらけ出される)全員必死で言葉にくらいついてゆく。今が世界のすべてである。
漸くスタートラインに立ったかのような嬉しさが、ブログを書かせているのかもしれない。十二夜であれだけの短時間で、何とか発表会にこぎつけた面々が一年後どのように変化するのかしないのか、そのことが実に楽しみである。
出会えた面々が、アクションを起こすことで意識の変化が生まれる。新しい感情が日々生成されてゆく中での思わぬ自分自身の声との出会いが、シェイクスピアの言葉を発することで生まれる、自分を発見する。
それは、時につらい稽古を持続するなかで、勇気をもって楽しめるくらいの覚悟が、肝が据わっていないと難しい。険しい山には登ったものにしか見えない景色といったものがあるとしか言いようがない。
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