だから畑に足を踏み入れることがかなわなくても、仕方がないという心境で済ませることができる、つまりは余裕を持てる今現在の暮らしが有難い。
先日、レッスンの前ちょっと時間があったので、丸善に行って万年筆のインクを買った。これは母が使えるならあげると私にくれたもので何十年も眠っていた一品なのだが、どのような万年筆であれ、私は使えるのなら大事に使いたいと思ったわけである。
結果は十分に使えることが分かった。意味もなく嬉しい、母に頂いた思い出の品。これで私の万年筆は3本になった。この万年筆のインクは黒に決めた。
こないだの発表会のアンケートが2通ほど届いた。私は簡単なお礼の葉書を万年筆で書いた。本当に久しぶりに兄にも手紙を書いた。これからの私は便りを書きたいのです。(まさに時代と逆行する形ですが)
パソコンで書くという行為と、万年筆や筆で書くという二つの行為で今後はゆきたいと思っている。
ところで、丸善で尊敬する劇作家、井上ひさしさんのセリフ集を買った。(いずれ全集も一巻ずつそろえたいと思っている)宝石のような言葉の数々がしみてくる。
すぐ読めるが、気の遠くなるほどの努力の果てに生み出された珠玉の言葉を前に、心がしーんとなる。墨をすって一言一言を、筆で書きたくなる。また一つ、これからの楽しみが増えた。
シェイクスピアを読むといっても、私は当然翻訳された日本語で読む。翻訳者の日本語による世界観がいやでもあらわになる。
井上ひさしさんは日本語の豊かさを、芝居の中でとことん追求された(しかもわかりやすく)まれなお仕事をされた方だと思う。
無学、無知を自認する私にとって、先生のような方である。その博覧強記ぶりには驚嘆する。何よりもユーモアを片時も忘れないのが素晴らしい。状況はどん底なのに、その中からたぐいまれな言葉が生まれてくる。(安穏とした暮らしでは生まれえないのだ)
その言葉に励まされてきたし、きっとこれからも励まされる。井上ひさしさんは、シェイクスピアが大好きだったみたいで、天保十二年のシェイクスピアという芝居を書いている(全編にシェイクスピアのセリフがちりばめられている)。
言葉が、(話芸)笑いをただで生み出すということの何という豊かさ、奇蹟、私も僭越ながら今後もタダで言葉にしがみついて、シェイクスピアや、井上ひさし先生ほか、日本語の達人たちからささやかに学び続けてゆきたいと思わずにはいられない。
最後に、名セリフの中から一つ上げて、今朝のブログはお開き。
【急げばきっと薄いところが出来てくる。そしてかならずやその薄いところから破れがくる】
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