21年間通った夢が原を辞して早一月が、なんともはやくあっという間に過ぎようとしている。GWといえば夢が原で缶詰のような日々を過していたので、今年のGWは私にとっては、本当の意味でのGWを22年ぶりに過している。
ことさらには何もしない平凡なGWがこんなにもありがたいということの喜びをかみしめている。GWが終わるとすぐにエリックマリア氏のライブがあるし、遊声塾も始まったし、これまでできなかったことがいろいろとあるので、時間がやりたいことのために自由に使えるということの嬉しさは、たとえようもない。
この年になると、時は金なりは至言だとおもう。それにしても、極めてはなはだ個人的な感慨なのだが、書物に親しむ時間が増えたのが嬉しきことの中の、やはり一番に挙げられるという気がしている。いまさらながらに、これはきりの無いことではあるが、自分の無知を知る日々である。
謙虚に何事かを知るためには、思考の柔軟さということが欠かせないような気が限りなくします。人生は短く芸術は長いとよく言われます。私自身これから何冊の本が読めるのかは、皆目わかりませんが、冷静に何歳まで生きたとして、計算すればおおよそその数は、本の海を考えれば、おのずと明らかになるとは思いますが、そんなことに意味があるのかどうかは、私自身は懐疑的です。
一冊の本を繰り返し読む、その行為の中から無限の叡智をくみ取る力を身につけることなくしては、いくら本を読んでも意味を為さない、そんなふうに私には思える最近なのです。
これは映画(あらゆる心が動かされる文学、音楽、芸術や芸能全体)なんかを見て感動しても、日々の自分の暮らしの中に、なのごとかを活かしてゆく行為、アクションのようなことが生まれてこないと何か、感動するということの根源的な意味のようなことが、何やらうすら寒く、私の場合は感じてしまうのです。
余計なことではあるのですが、私の場合感動すると何かしたくなるという性癖があるようで、そのことがつまりは私における生きているということなのだと、認識理解しているということだと考えています。
だからスポンティニアスな精神活動ができなくなった時は、潔く廃業しようと考えているのですが、有難いことに煩悩を抱えて、いまだ心と体がいきいきといろいろ感じ、反応するということは、何事にも代えがたいとおもいます。
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