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2013-04-21

亡き父の形見の硯で文字を書くひととき


恥ずかしくも61歳の書

父が使っていた硯を磨って、文字を書くことをこのところ,機会を見つけて始めた。いつの日か落ち着いた時間が自分に訪れたら、我流でもいいから、ゆっくり墨を磨り、文字を書いてみたいとおもっていたことが、ようやく実現し始めたのである。

 

亡き父が、巻紙の和紙に筆でよく便りをさらさらと書いていたのを、そばで眺めていた幼少期の記憶が、私を書に誘うのかもしれない。父の書も我流だと言っていたが、父らしい文字の書が残っていて、パソコンばかりではなく、墨の香りを嗅ぎ、毛筆の弾力を身体で感じながら、精神を集中しながら文字を刻むのは、今ようやっとこういう時間が持てるお金のかからない、私の遊び心を満たすのである。

 

現代という、わけのわからないほどに生活するだけで忙しい、否でも精神が千路に乱れざるを得ないような時代状況に在っては、ヒトは本能的に精神と体のバランスをとらざるをえない。

 

そういう意味において、書は、61歳からの手習いで始める、私の個人的な楽しみとして欠かせないようなきがしていて、しっかりと取り組んでみたいという気になっている。心が何やら落ち着かないときに日本語の文字を書く、(静かに取り組む)時間を大切にしたいのだ。

 

どこか心に余裕がないと、声を出したり、企画をしたりするという行為はなりたたないように、書もまた然りなのである。これからの仕事を充実させ深めてゆくためにも、始めたばかりにもかかわらず、書は私にとっては必須になりそうな予感がしている。

 

先人たちの詠んだすぐれた和歌や言葉を和紙に筆で書く、ただそれだけの行為といえばそれだけのことなのだが、意識を集中する訓練には、私の場合あっている気がする。何事もそうだが、やろうとおもったら続ける、しかない。

 

これまでもそれなりの気づきの中で、年齢的に無理をしない程度に、毎日ささやかに身体をできるだけ、ゆらしたりして遊ぶ、体操を心がけていて(これも我流なのだが身体が気持ち良くなる体操)、遊声塾でもやりたいとおもって思っているのだが、4月からまた一つ始めたことがある。いまのところ雨の日以外毎日続けている。

 

3カ月続けられたらブログで伝えたいとおもっている、一回もできなかったもっとも苦手だった懸垂はなんとか2年以上続いている。無理をしないことと遊び心、が続けるコツである。

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