還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。
3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。2024-11-13
2024-11-10
晩秋、老人は荒野を目指す、【マエストロに聞け】参加者からの予期せぬリスポンスに励まされる今朝の五十鈴川だより。
すっかり日の出が遅くなった。晩秋のこの季節が私はことのほか好きで、分けても休日の朝の静かな時間帯をこよなく大事にしている私である。昨日、ちょっと土取さんとの出会いなどを、五十鈴川だよりに打ち、長くなりそうだったので、続きは明日打つことにしたら、あっという間に、今朝が来たという次第。(昨日午後玉ねぎの苗を300本植え、頭を冷やした)
岡山に移住する前の宝のポスター |
昨日午前中、五十鈴川だよりをアップした後、ラインで3日連続ロングメールを打ったのだが、わずか一日で、新たに何人ものかたから、応援メールをいただき、それぞれのかたには、今日を含め、返信メールを打たねばとは思っている。
瀬政さん、河合さん、京さん、ヤナセさん、大場さん、Iさん、Yさん、Mさん、Gさん、Nさん、Wさん、Aさん、Hさん、娘二人を加えると、15名のかたから、励ましや、何らかのお手伝いを(皆さんそれぞれの生活を抱えながら、困難な時代のなか)したい、遠方だけれどなにか力になりたい等、メッセージが寄せられている。
ロングメールの度に、ショートリスポンスをくださるかたもいて、短長の文面ではあれ、その方のお人柄の現在感覚(人はそれぞれの場所で変容しながら生きている)が自ずと浮かび上がってきます。(五十鈴川だよりを打つものとして、応援メールをくださったかたに、この場を借りて心からお礼申し上げます)
すべてありがたく、アクションを発信しなかったら、決してこのようなリアクションはいただけなかったかと言うことを勘案すると、改めて私はなぜこのようなアクションを起こしているのだろうと考えなくもありません。仕事でもなんでもなく、ただ土取さんからの依頼だというだけで、この年齢で、なぜかくも心がざわめきたつのかは、やはり土取さんだから、というしかありません。
土取さんのことを知らない、知ってはいてもまったく関心のないかたには、脳が動かないのが当たり前、それが自然なのである。私としては、反応のある方々との裾野が拡がってゆく、見果てぬ夢を面白くいきる、ささやかでも粋のいいエネルギーを結集したい。金銭等の力もさることながら、私を含め、いっぱいいっぱいの日々の生活のなかでの、このようなリスポンスこそが、私にエネルギーをくれ、ある種の思いもかけないアイデアが浮かぶ、ぎりぎりをサーフィンする、面白がる。
リスポンスのなかでとても嬉しかったのは(全部嬉しいのですが)今年3月から、おおよそ4ヶ月、10回程度シェイクスピアのリーディング音読、【マエストロに聞け】に参加してくださったかた、(河合さん瀬政さん以外の参加者)3名からリスポンスがあったことである。
その中のひとりHさんからのリスポンスは、まったく意外で、これだから人間は面白いと言う他はない。このかたは、シェイクスピアのリーディング、カラオケの延長みたいに、とにかく声が出せればいい、ただ音読してみたいくらいの、のりで参加されており、私のようなシェイクスピアへの偏愛はまったくない方でした。その上お仕事の都合等で毎回の参加は非常に難しい方だったのですが、レッスンに参加された時は、つっかえつっかえしながらも、必死に声をだされていたのがとても印象に残っているかたなのである。その思いもかけないかたからの、わずか一行、いただいたメールは、私を感動させました。
私はイデオロギーも何もなく、根のある風のように生きて行ければそれでよし。ただし、これはという友達のためなら、ハムレットが言うように、例え藁しべ一本のためにも腹をくくって挑む(これはあくまで理想です)。という生き方に憧れる。(多分に父親の影響もある、誇りをもって人がやりたがらないことをやれという、言わば家訓のようなもの、私はとても古い人間なのである)
生来の感動するバネのおかげで(ありがたいことに)なんとかこの年齢までたどり着き、いまこのようなお話を土取さんからお声かけいただけているのだとの認識がある。Hさんからの一行のリスポンスが私に五十鈴川だよりを打たせる。Hさんとはお茶を飲んだこともなく、我が家に来ていただいたこともなく、お話をしたことさえありません。だけれども、きちんと生活されておられる方、というのが今も私のHさんに抱いている印象である。
マエストロに聞け、のレッスン、(今現在の私の中から湧いてくる情熱のすべてを出し切ったので、思い残すことはない)いただいたメールふたり目、Yさんは、うちの長女と同世代、二人のお子さんを抱え、お仕事子育て真っ最中なのに(いつの日にか時間がとれるようになったら再びレッスンしたいとのこと)私のレッスンに果敢に挑んでくれ、とてもよい印象、磨けば変身する可能性を感じさせる方でした。時間の許す範囲で当日スタッフとして、とありました。3人目男性Gさんから昨日いただいたメール、これまた前向きな応援メールでした。
【マエストロに聞け】全10回のレッスン参加者からいただいたメールを読み、想うことは、シェイクスピアのリーディング音読を通じて、なにがしかの私の存在意義のような思いが伝わったからこそいただいた応援メッセージだと、改めてレッスンをやってよかったと思う。
人と人との関係性の深い構築は、一朝一夕に叶うものではなく、お互いをさらけ出し、ぎりぎりのところで踏ん張る力をその人なりの力で、おりおりは致し方なくあきらめながらも、再び力を蓄え果敢に挑んでいくことを繰り返した仲間との共有関係のなかでしか育み得ないというのが、私の正直な認識である。
そういう意味で、今年マエストロに聞け、がなかったら出会えなかった方たちからの応援メールは、私の土取さんとのコラボ実現に向けて新しい風を運ぶ。当たり前だが、ドアを叩かないとドアは開かないし、ドアを開かないと新しい風は入ってこない。河合さん、瀬政さん含めマエストロに聞けから5名もの応援前向きメール。やはりシェイクスピアは守り神である。ワクワクときめかないイベントは、ごまめの歯軋り、私にはできない、(のである)。
2024-11-09
土取利行さんから、来年岡山での公演企画の依頼を受け想う、今朝の五十鈴川だより。
わずか一週間もたたないうちに、というか、前回の五十鈴川だよりから5日後に、まったく心持ちが、こうも変わるかのような五十鈴川だよりを打つことになろうとは思いもしなかった。
というのがまったくオーバーには思えないほどに、一寸先まったく予期しないメールが、年の瀬というにはちょっと早いが届いて、何やら一気に私の中の老人気分がふっとんでしまって、さてもさてもどうしたらいいのか、老境のハムレットの心持ちで、思案のしどころ、いまも打ちながら、ありがたい気持ちを抱えながら、五十鈴川だよりをとにかく打っているところである。
8年前偶然見つけた本いつもそばにある |
用件は、来年土取さんが、来年岡山で春にパーカッションのグループ、再結成したスパイラルアームの公演を、秋に縄文のイベントをやりたいので、是非協力してほしい、来週岡山にゆくので時間を明けてほしいとの依頼メールであった。
もう私のなかで、大きな企画はしないとのシフトチェンジしたおもいを、五十鈴川だよりに打って、まもなく届いたメールであったので、正直一晩私はない頭で思案にくれた。
土取さんとの衝撃的な出会いは26才、25歳初めての異国の地、ロンドン遊学の時である。数々の思いでの中の白眉である。今は亡き20世紀が生んだ偉大な演出家ピーター・ブルック国際劇団の舞台音楽(個人的な音楽活動とは別に、40年以上、最後まで続けた)、アルフレッド・ダリ作、ユビュ王である。
開演前一人ドラムセットに土取さんが座っている。土取さんの演奏で芝居が始まる。舞台は明るい。ピーター・ブルックの名著、何もない空間、そのままである。ドラムセットの周りには見たこともない楽器の数々(今ならわかる)笛や鈴などなど、アフリカはじめとする世界各地の民族伝統楽器が置いてあり、シーンシーンを即興で演奏するのである。演奏しないときは一観客になり笑ったり、自然に反応する。
(私はピーター・ブルックの夏の夜の夢を二十歳くらいの時、東京の日生劇場で観て、そのあまりの斬新さに、若かったしビックリし、そしてシェイクスピア作品だけを演出する演出家だと思っていたので、当時、その事にまずは驚いた。現代演劇としてのシェイクスピア、ピーター・ブルックの存在を知らなかったら、私は恐らく土取さんとのまさに演劇的な出会いはなかったであろう)
打っているとテムズ川の対岸のヤング・ヴック座、ありし日の若き土取さんの軽やかな、チベット僧のような姿で、ドラムスティックを常に右手にもちながらロンドンの街中を歩いていた姿を忘れない。
舞台から、しなやかというしかない、細身の体から放たれる宝石のような珠玉の音のつぶてを浴びた私は茫然自失し、あのピーター・ブルックの音楽を日本人がやっていることに、心底驚いたのである。終演後、怖いもの知らず、楽屋に土取さんを訪ねたのが、出会いである。
土取さんは夕食にピカデリーの菜食レストランに私を誘ってくれ、未知の国の音楽、分けてもアフリカやアジアの音楽、西洋音楽との相違をとうとうとわずかな時間私に語ってくれたのだが、その事が以後私に未知の国を訪ねる契機の種になったことは間違いない。
あれから、47年の歳月が流れ、ある種どこか感無量の思いが去来するのだが、とにもかくにも、我が人生で出会えた稀有な人間、そして言うまでもなく、私の人生にいまもって大きな影響を与え続けている存在である。
私はもう臆面もなく老人である。しかし土取さんは私より年長である。その方がお声をかけてくださるのは甚だの誉れではある。わたしに何が可能であろうか。謙虚に私は問う。そして大きな企画に関わるシフトチェンジを暫し延長することにしたのである。
ただ、土取利行さんでなかったら、多分これほどのエネルギーはわいてこないだろう。土取さんが全人生をかけて、今も果敢に挑戦している姿を前にしては、古いけれど男子として情けないのである。私の思い。情熱のある若い人たちにに土取利行という芸術家、私が大いに啓発され続けているアーティストの存在の多岐にわたる(それぞれの年代で取り組んだ)歩み、軌跡を知ってもらえたら、ということを思いついたとき、老人の私の体にスイッチ(オン)がはいったのである。
続きは、明日打つことにします。
2024-11-04
朝の秋の光を背中に浴びながら、3日連続打つ成りゆき五十鈴川だより。
昨日午前10時過ぎから、午後2時までかかって妻と二人でサツマイモの収穫を終えた。思ったよりも立派な大きなサツマイモが多くて驚いた。大中小バランスよく成育していて、大満足であった。その事を打てばもう他にはあえて打つこともないのだが、小器晩成、老人の打つ楽しみ、五十鈴川だよりを育みたいという意気、生き甲斐は今しばらくは手放せない。
天の恵みサツマイモの収穫 |
秋真っ盛りのこの3連休、家の近所と図書館、それにお芋の収穫で過ごすことになりそうである。行楽地に妻は出掛けたいとは、ほとんど言わないし、繕い物をしたり、とにかく家のなかで過ごすことが、苦にならないタイプなので、すっかり私も彼女の生活ぶりに馴染むようになってきつつある最近である。だから以前の私では考えられないほど、行動範囲の狭い生活を、楽しむことが出来ている。
その一方、やはり私は旅好きであり、ちょっとフラり文庫本をもって風来坊になりたいという、生来の気質は多分体が動かなくなるまでは、やめないだろう。幸い妻はそういう私の行動にまで踏みいってはこないのでありがたい。(お互いが手放せない存在では在るが、自律した個人の領域までは干渉しない。そもそもまったく異なる人格なのであることを尊重し、共存するというのが、老夫婦の我が家の風通しのいい関係性である)
去年は近い外国、韓国のプサンを20年ぶりくらいに、つかの間ひとり旅をすることができて、実に有意義な旅となった。あの旅、当地の素晴らしい若者たちのサポートで、日々五十鈴川だよりに打ったので、読み返してはいないが記録として残っている。あのような気持ちのいい小さなひとり旅を、今年もしてみたいとは思うが、できるかどうかは未定である。
さて、昨日のサツマイモの収穫で思ったことだが、還暦を迎え、(そして中世夢が原を退職して)12年、よもやまさかこんなに土に親しむ生活を送るようになるとは思いもしなかった。そして、3人の孫に恵まれることももちろん思いもしなかった。
成り行きという言葉がある。18才からまるで成り行きという言葉しか浮かばないくらい、20代、30代転機の折々で、行動選択しながら、今に至っている私の人生である。なにか成り行きという言葉はよいイメージがともなわないような気がしていたのだが、いや私ばかりではなく、あの天才立川談志が、人生成りゆきという本を出されているし(読んではいない)、養老孟司先生も自分の人生は成りゆきだとおっしゃっておられたので、私としては大いに慰められている。
これから一回り12年後、私が生存しているかいないかはともかく、はっきりしていることは未知だからこそ人生は面白いのだし、先のことなど誰ひとりわからない。2023年が始まって10ヶ月が過ぎた。今年は私にとってずいぶん意外なことや、思いもしなかったことが次々と起こっている。その事を面白くいい方向にと。今年も残り2ヶ月しっかりと生活したいと思う私である。
PS 昨年秋プサンの場末の宿に近いところに市場があったので、何度もその市場で庶民のランチや夕食を一人でし、その市場で最後に買い物をしたのだが、その乾物やさんのお店の店番の40才くらいの(30代かもしれない)女性の人がとても感じがよく、あれこれ考える旅人のわたしに辛抱強く対応してくれ、商売っ気なくよい品を薦めてくれた。あの乾物やさんをもう一度訪ねたいという思いが私にはある。私の旅はガイドブックにはない。高齢者なのだから、異国への旅は春か秋にしたい。
2024-11-03
妻とアルバイト先に植えているサツマイモの収穫に出掛ける前の五十鈴川だより。
昨日雨が上がったので、夕刻読み終えた本を返しに図書館に行き、新たに本を5冊ほど借り、ついでにいつも裸足散歩を(雨上がりで所々水がたまっていたが)暗くなる日没6時前までの数十分運動公園でした。裸足の老秋、清々しい気持ちになれる黄昏時の一時。
朝から夕刻まで部屋にこもっていたので、夕闇迫る天を眺めての、極楽とんぼ裸足散歩は今や私の生活のなかでは欠かすことができない。よほどの雨ではない限り、休日家にいるときは、この数年持続している。
佐藤優さんとの友情が素晴らしい |
働くことも、すべてのことに言えるが、続けられるのはやり終えたときに、それなりの自分にしかわからない達成感と、(裸足散歩に達成感とはちとオーバーだが)喜びとある種の気持ちよさがあるから、続けられているのだと想う。あえてその事を敷衍して付け加えると、人間だから気持ちが上向かないこともあるし、本質的に私は怠惰であるとの自己認識がある。流されやすい。
だから、そういうときにはあえて、少々無理をしてでも、気持ちを押し上げるためにも、わずかであれ体を動かし続ける。そうすると体は不思議と動き始める。働くことも音読することも、旅をすることもすべては老いつつ体が喜ぶことしか、今の私には興趣がわかないのである。
(打っているこの部屋に、秋の朝の日差しが一気に差し込んできた。今日は文化の日であるが、アルバイト先に植えているサツマイモの収穫にゆく予定である、文化の日とは何か、改めて自分に問う)
生活のあらゆるシフトチェンジを、このところゆっくりと進めているが、分けても大きなリスクを背負う企画をするということからは、たぶんよほどのことがない限り、今後しないだろうと想う。(イベントのお誘いも古希を過ぎたので義理を欠くことに決めた、妻との時間を最優先する)
いつものように話を変える。この半世紀以上生活しながら、生きる糧として、少しでも無知蒙昧からの脱却と夢を育む読書、体が喜ぶ読書を現在も続けて来て、五十鈴川だよりではほとんど触れていない私が大好きな、人間として畏怖する、爪の垢でもあのようにいきられたらと憧れる人間に、女優であり作家に高峰秀子さんがおられる。
初めて読んだのはもう思い出せないが多分本が出てまもなくだから、私がまだ20代であったかと思う。タイトルは【私の渡世日記】読み出したら止められないほどに、波乱万丈、劇的な人生が綴られていた。とにかく自分のことではないから、読み物として存分に堪能した。以来高峰秀子という名前は、私のなかでは単なる女優ではなく、ひとりの人間、分けてもものを書く人、粋で無駄のない、つまりは文は人なりという言葉がもっともいい得ている作家として、私の胸のなかで今も生き続けている。(その上料理が抜群に上手い。そのすべての情熱は夫、松山善三氏のために作られる。なんという夫婦関係の出会いからの数奇な運命)
お亡くなりになって久しいが、松山家の養女の松山明美(養女に迎えられるいきさつがこれまた泣かせる)さんが、次々と高峰秀子さんの人間としての素晴らしさを伝えるご本を出版されている。足跡を展示する(写真展等で)イベントも定期的にやられている。(ようである)
なぜ、このようなことを突然打っているかというと、米原万里さんという作家がおられた。ロシア語の通訳者、翻訳家で、何冊か読んだことがあり、2006年の5月、ご病気で早逝されている。高峰秀子さん、米原万里さん生まれ落ちた時代も、お仕事もまったく異なるジャンルの方ではあるが、本となって遺された文章を、改めてゆっくり読むと、その素晴らしさに打たれるのだ。うまく言えないがお二人には共通する(質は違うが)独特の人間としての魅力がある。
高峰秀子さんの映画、二十四の瞳を小学生の頃田舎の映画館で見た記憶がある。亡き母が大好きな女優であった。多分同世代。高峰さんの代表作映画、浮き雲なども探して観たくなった。米原万里さんの本で、すでに17世紀にクリミアをめぐっての争い、ロシアとウクライナの複雑な歴史の一端も知らされた。
また庶民兵士にとって黒パンの重要さが、日本人の梅干しに相当するほど大切な主食であることなど、目から鱗のように知らされる。だから、老いても本が手放せない。老いてもの一番のありがたいことは、人生で出会えた、最後まで手放せない人や自分にとって大切な書物に囲まれて限られた時間を生きることである。
2024-11-02
読書の秋に、徒然想う五十鈴川だより。
今日から 3連休である。そして、早11月である。昨日から降り続いた雨が今は止んでいる。先程メル散歩から戻ってきてところ、空は一面どんよりと重い雲が垂れ込めている。とりたてて打ちたいことがある日も、打つことがない日も、調子がいいときも、調子の意気が上がらないときも、お休みの日は何かを綴り打ちたい、老人である。
教わることが染みる秋 |
さて、今年もあと2ヶ月となった。このところ佐藤愛子さん、高樹のぶ子さんの長編小説を立て続けに読んだ。いずれも(エッセイとうは読んだことがあるが)小説は初めて読んだ。そして宗教学の専門家であられる山折哲雄さんの【我が人生の三原則】という御本を読み終えたばかりである。この方の本もようやく初めて読んだ。
とりたてて打つことは思い浮かばないのだが、一言打ちたいのは、博学、博識のその道の専門家のご本、真摯な学識に裏打ちされた文章は、ぐいぐいと引き込まれて読み進むことができ、わずか二日で読み終えた。私にしては本当に早い。
今思うことは、手にして、このような本に巡りあえて本当によかったという単純な思いである。私より年長者で若い頃から学徒として宗教学、思想史を学びながら、ご自身様々な病を体験され、生き返るかのように生還し、学ばれた成果が80才を過ぎてから出されたこの本にはつまっている。何よりも学者が書かれたとは思えないくらい文章がわかりやすく、簡潔、無駄がない。
お三方分野は異なるが、50年以上生き方が一筋、(佐藤愛子さんは90歳を目前の時の小説)人柄が浮かんでくるお仕事ぶりに深く頭を垂れ、静かに脱帽する。いちいちの内容には触れない。もし読んでみたいと思われるかたがいたら、ご自分で手にしてほしい。唯一の自分の現在の心と体で味わうのが一番である。
古典、シェイクスピア作品であろうが、今の高樹のぶ子さんの作品(高樹さんの古典への思い、日本語への思いがすごい)であろうが、一度で理解できるほど、やわではない。山折哲雄先生の本、佐藤愛子さんの本、共通するのはこれから私が明日を迎え、老い路を豊かに生きてゆくためのには欠かせない、心の栄養になるのは間違いないと、思わせられた本であるからこそ、五十鈴川だよりに打っておきたい、ただそれだけである。
老人と若者の違いは(突然のアクシデントがない限り)年よりは若者より確実に死が近いということである。歳を積むことは、死を年年歳歳身近に感じることが深まってゆくということだと思う。若いときにメメントモリとう言葉を知ったときには、食うことが精一杯でとてもではないが、死を身近に感じる(感じることは感じていたと想う)ことよりも、ひたすら現在を生きるしかなかった。だが今はまるで違う。いやでも死を意識する年齢に入ってきたし、考える余裕がある。その事を前向きにとらえ、生きて行きたいのである。
(歳をとったなどという暇もないくらい、佐藤愛子さんは別れた夫の借金を返すためにためにひたすら小説を書き続け借金を返済、あっぱれ。気がついたら歳を重ねていたというのは例外中の例外、だがこういう女傑が私は大好きである)
と、ここまで打ってきて、このまま打つとまるでまとまらない五十鈴川だよりになるのは避けたい。要は読書もシフトチェンジ、一度きりの人生は確かなので、夏目漱石の小説他、これまで題名だけしか知らなかったかたの代表作を中心に、他ジャンルの書物の海を泳ぎたいと、ささやかに思うのだ。一回限りの人生ではとても読みきれないことは承知している。あくまで休日の過ごし方の範囲の中での読書で思うことである。
なんといっても、今現在の生活のなかで私が一番大切にしていることは、私と妻、二人の娘たち家族の家庭の生活である。そして母が時おり言っていた言葉、本を読むばかりが人生ではないと。あくまで己が生きてゆくための読書である。
PS 明らかに・あきらめて往く・もくもくと・ひとり草刈り・秋風がしむ。