嬉しい土曜日である。起きて一仕事をしての五十鈴川だよりタイム。もうすっかりおじいさんの気まま五十鈴川だよりと化しているのを、私はどこかで自覚している。ままよこのままのひびの老い先だよりを、のらりくらりと打ち綴りたいとの煩悩を、自分らしく(何が自分らしいのかは置いといておく)在りつつ老いてゆきたい。
ところで9月になっても激暑は続いている。だが夜半から朝にかけては、寝苦しいことは私の場合はなくなってきた。ちょっとホットしている。それにしても7月8月の暑さは異常としか思えないほどの暑さで、72歳のこの体が良く持ちこたえたもんだと、我ながら驚いている。五十鈴川だよりを打つ気力も萎えておらず、秋を迎えられそうであることに、例えようのない、安堵を覚えている。
年齢が年齢なのだから、くれぐれも自重しなければならないのはやまやまなれど、あの暑さをしのぎ、なおかつあの暑さのなか、ずいぶん此の夏はよい本に恵まれ、よき読書体験ができたことが、逆にあのきちがい夏を乗り越えられた要因かも知れない。そしていま、遅読ではあれ、いよいよ本を手にする孤独(孤立ではない)時間が愉しみな私である。何度も打っているが狭い分野の本しか手にしてこなかったという反省があるので、秘密の扉を開く喜び、と打つと何やら妖しげではあるが、もうこれからは怪しき老人になりたい位である。怪人なん面相くらいに。
とはいっても、人間もって生まれた性がそうは変わらないのはあたりまえ、あくまでも言葉上の遊びが大半であるのは言うまでもない。が、老人の気ままな願望ではある。さて、此の夏の読書体験でもっとも嬉しかったのは(何一つ無駄な本はなく今の私にとって必要不可欠な本ばかりであった)チェーホフの作品がしみるように読めたことである。
おそらく、シェイクスピアとチェーホフは、いよいよこれから、繰り返し読み続ける、続けたい。読むたびに今の私の生活に新しい刺激やエネルギーをいただける作家に我が生涯で巡り会えたこと、例えようもなく嬉しい。息も絶え絶えの、ながいながい夏の間、次々の読書体験が私を(今もだが)支え続けたことは間違いない。だから待ち望んだ秋の到来が、たまらなく私は嬉しいのである。
年齢を重ねるごとに読書体験が血肉化してゆくかのような気さえする。それもこれも健康に動くからだのお陰である。幼少期から(家に本がなく)読書体験の極端に少ない環境に育ち、社会に出てからも生きるのに精一杯であまりにも本を手にしてこなかったという反省、いい意味でのコンプレックスが、今となっても強烈に残っている、(それが私を支えている)。
知的好奇心といえばカッコつけすぎではあるけれど、知る、学ぶ喜びは老人足りて尚、私を活性化させる。以前、労働と音読はセットであると打ったが、労働が終われば本が読みたくなり、本を読むと労働、音読がしたくなり、定期便、年に数回の旅のお供は本であり、老いゆく私の循環ライフは充実、健康であるからこそのありがたさである。
いきなり話は変わる。朝書斎の古いたまったイベントのチラシやアンケート、いろんながらくたの数々等、衣類、その他その他、一度には無理なので週末ごとに一時間程度整理整頓することにし、先週から始めた。目標は年内に済ませることである。流行りの断捨離ではない。残しておきたいものと、不必要なものとを仕分けしあくまでスッキリ整頓整頓することである。
整理整頓が苦手な私なのだが、椎名誠さんの遺言未満を読んで一念発起したのである。一冊の読書体験が私を突き動かしたのである。動くからだ、
没頭する世界をお持ちのお二人学びたい。 |
意識が健康体であるうちに努めて娘たちに厄介を極力(最後はお世話になるとしても)おさえておかないと、不味いと思うのである。
本以外、ほとんどなにも持っていない私であるが、私の後始末にかかる必要経費だけはきちんとしておきたいし、遺言未満(い言えて妙)最低言葉にして、とは考えている。
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