東京から火曜日の夜帰ってきて、翌日から昨日まで肉体労働をし、昨日で今月の労働バイトを終え、今日から4連休の朝である。俗にメリハリ何て言うが、主に私は月の全般は午後も働くように(涼しくなってからは特に)して月の後半はまとまったお休みをとって、小さな旅ができるように努めている。だから己の裁量で時間調節が可能な、この老いバイトをことのほか私は気に入っている。
大先輩の本、人間への好奇心が凄い |
一日の時間の使い方、大まかな一月の予定、そして年に4回から5回程度の小さな旅、(韓国への旅も入る)を古稀以後持続的に続けている。今年もあと3ヶ月であるが、今のところ個人的にこれ以上は望むべくもない感じで生活が送れている。それもこれもすべては健康にからだが動いてくれているおかげである。
新聞の購読を止めておおよそ一年になる。テレビの報道やニュース、スポーツやドラマもほとんど以前のようには見ることはなく、早く言えばあらゆることに覚めた老人生活にいよいよ入ってきているのを自覚している。自分の老人免疫が下がるような映像やニュースの声には、目も耳も閉ざす傾向が深まっている。(集中豪雨、災害等の無力感、自分があのようなめにあったらとおもうと言葉がない)
だからといって無関心というのではもうとうない。老いてゆくなかで、内的な免疫力をキープしてゆくためには、私の場合どこかで間接的な情報を遮断し、生で五感をフルに使っての直接情報、免疫力をあげる明るい話題をこそ大事にし、本能的感覚を優先して生活したいのである。情報を疑い、ファクトチェックを自分に課さないと危うい気がする。
それが私にとっての気持ちのいい老人ライフなのである。木偶の坊生活に憧れるということを古稀を過ぎて度々打っていると思うが、その傾向はますます深まることはあっても弱まることはないだろう。新聞を止めても特段困ったことはほとんどない。観劇ほかのこれまでの人生でかなり時間を費やしてきた営為(ただしネット配信は観ている、面白く感じるものだけ、エログロ暴力ホラーは見ない)も特別のことがない限り、卒業したくなってきた。
それより見たことがないものや、読んだこともない作家の本を読んだり、行ったことがことがない場所をふらり訪ねたり、要するにこれまで体験をしたことがないことに好奇心を失わないような、手間隙を惜しまない(例えばゆっくりと調理するとか)身近生活充実ライフに重きをおきたいのである。もっと言えばそこにドラマを見つけたいのである。
こういう感覚は老いてみないとわいてこなかった感覚なので、私は自分のこういう感覚に正直でありたいだけなのである。したがって、だから五十鈴川だよりはこれからますます私小説的な、身辺雑記的な、小さな生活記録的なブログになってくる気がする。小さな気付きの深まる秋を面白く生きるのである。
チェーホフは言っている。雨が降ったら雨が降ったとお書きなさいと。次元が異なる例えではあるが、無い袖は振れずあるがまま、思い付くよしなしごとを打ちつつ、一日一日を気持ちよくしっかと生活するしか私にはほかに方法が無いし、それで満足なのである。
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