週末おやすみの朝がこんなに嬉しいのは、当たり前だが、この未曾有うの夏のきちがいじみた暑さのなかを、なんとか労働をこなして、元気に五十鈴川だよりを打てるからである。
母の写真、この数年いつも私のそばに在る |
もうすぐお彼岸だというのに、日中のこの暑さは異常気象という他はない。だがぼやいていても暑さは容赦ない。ならばどうすればいい。
生き甲斐といってもいい今の労働アルバイトを、一日でも長く続けたい私としては、私なりの対策を日々我が身に向かって施しながら、やり過ごしている。そのいちいちを綴り打つことは控えるが、その対策のお陰で、こうやって五十鈴川だよりを打つ元気をキープしている。何事も継続の上での知恵の恵みである。
家族、分けても妻がこの酷暑の夏の私の労働をいたわってくれるのがありがたく身にしみる。このようなことを打つと、やすきに流れやすい私としては妻への感謝の気持ちを縷々綴り打ちたくなるのだが、野暮なことは一切打つ気がしない。
そのようなことを打ち出したら、もうそろそろ、五十鈴川だよりはお開きにしなくてはならない。どこかに抑制のような感覚がなくなったら、お恥ずかしい限りという他はない。
話を戻す。今も続く暑さのなか、何はともあれ9月の半ばまでを乗りきった我が体に、感謝、そしてなにがしかのご褒美を与えたいという気持ちがある。今のバイト先は、中世夢が原とはまったく異なるが、広い原野での労働がいかに私にとって適材適所というしかない。私にとって誤解を恐れずに言えば、遊ぶようにフィールドを自由自在に駆け巡りながら、春夏秋冬を過ごせるという意味で、私にとってはまたとないフリーターからだ動かしバイトである。
年金生活者になると、どうしても守りに入りがちになるが、66才で巡り遇えたこのバイト先は、富良野塾と中世夢が原で体得した肉体労働の経験がすべて無駄なくいかせる、まとない晩年時間を過ごす場所としては、理想の居場所なのである。
丸6年働いているがそのありがたさへの思いは、歳を重ねるにしたがって深まっている。ましてや働き始めてから夏の暑さは年々酷くなってきているなかで、なんとかこの夏を乗りきれそうな予感がするからこそ、年よりの嬉しさは格別なのである。
何はともあれ家族は私が労働し、元気で五十鈴川だよりを打つことを影ながら応援してくれている。究極、やはり私は動くことが好きなのだと確信した。ゆっくり元気で労働ができ、家族を含めた身の回りの人が喜び、役に立てればもう十分なのである。(自分の個人的な欲望はもう十分に燃焼し尽くした感がある)
音読は個人レッスンにとどめ、あくまで自分自身のためのレッスンをこそ静かに続けたいという気持ちが沸き起こってきている。此の夏の長い労働体験は根本的にいかに生きるのかをあらためて考えさせ、酷暑のなか滴る老いの汗、命の水を補給する度に、私は生きて在ることの素晴らしさを心から堪能している。そのとき3人の孫たちの顔が時おり浮かぶ。元気になる。
その日暮らし、というものに限りなく最近憧れる、もうそれこそが願ってもない喜びなのである。それを老いというのであれば、今の私は静かにその老いゆく時間を大切に過ごしたい。古希を過ぎNHKのラジオ深夜便(特に朝4時からの明日への言葉)をこよなく愛聴しているが、世界にはなんと素晴らしき人間が存在しているか、毎回蒙が拓かれるように聞き入る。
聞き耳を立てる。老人のアンテナを立てる。その気持ちがある間は奥の細道の扉が開いてくれるかもとの、淡い幻想に浸る。汗をかける老人で在りたい。
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