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2019-08-29

次女の結婚式に出掛ける前日の日の、午前中五十鈴川だより。

完全オフ、明日から次女の結婚式のための北海道へ行くためのパッキングを終え、ゆったりとした面持ちで、五十鈴川だより時間がきた。雨は落ちていない、それにしても九州北部の雨の被害には言葉がない。

どういう意味なのかは、つまびらかには知らないが、知らぬが仏という言葉がある。本当に見なければよかったとか、知らなければよかったとか、聞きたくはなかったというようなことが、以前にもまして増え続けているような気がするのは、私だけであろうか。

悲しいかな、2人称的当事者の痛みや苦しみは、身内のものでない限り、わからない、感知しえない。沈黙するのみである。もし自分がそのような目に遭ったら、と想像するだけで、この穏やかなこともなき、静かな時間が当たり前ではなく、ことさら有難き時間に想える。

ささやかにわが娘が式を挙げる、この現代をおおうもやもやとした、時代状況閉塞感には、出口の見えない暗雲をどこかに感じながらも、でも事我が家にとってはうれしきめでたい出来事である。

レットイットビー、ケセラセラ、生るようになる、あれやこれや憂いても、ヒトはやはり戦のさなかでも物を食べ、結婚式をどんな状況でも挙げ、どんなにささやかであれ寿いできたのであるから、次女の門出を見届け心から祝福したい。


上手下手ではなく、書くことが愉しい
ところで話は変わる。私はこの6年以上毎月一回、亡き父の残した硯をすり筆で文字をわずかであれ書いている。

還暦を過ぎて始めた我流での書の時間が、最近以前にもまして好きになりつつある。インターネットをはじめとする、電脳ITライフからはますます見放されたかのような、(する気もないしデジタル生活は最低でいい)わが暮らしの中で、静かに墨をすり、筆で文字を書き連ねるいっときは、初老男にとって、今や貴重な精神生活時間である。

シェイクスピア作品の長いセリフを、写経ならぬ、筆写しているのであるが、いよいよ声が出せなくなったり、弓が引けなくなったり、小さな旅ができなくなったら、筆を持てる間は筆写を続けたいと、最近思う。最後は、土と戯れ、書と戯れ、歌を読み、そして酒を飲み、よれよれであれ、よれよれだからこそ花鳥風月時間をと、夢見る。きっと夢見るようには、結果が訪れなくても、それはそれで甘受する。

先のことを案じることは、愚かなことであるとの側に私は立つ。要は今をこそ日々いかに生きるかということが大事である。先のことが分かっている人生は、私にはつまらなく思える。

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