どういう意味なのかは、つまびらかには知らないが、知らぬが仏という言葉がある。本当に見なければよかったとか、知らなければよかったとか、聞きたくはなかったというようなことが、以前にもまして増え続けているような気がするのは、私だけであろうか。
悲しいかな、2人称的当事者の痛みや苦しみは、身内のものでない限り、わからない、感知しえない。沈黙するのみである。もし自分がそのような目に遭ったら、と想像するだけで、この穏やかなこともなき、静かな時間が当たり前ではなく、ことさら有難き時間に想える。
ささやかにわが娘が式を挙げる、この現代をおおうもやもやとした、時代状況閉塞感には、出口の見えない暗雲をどこかに感じながらも、でも事我が家にとってはうれしきめでたい出来事である。
レットイットビー、ケセラセラ、生るようになる、あれやこれや憂いても、ヒトはやはり戦のさなかでも物を食べ、結婚式をどんな状況でも挙げ、どんなにささやかであれ寿いできたのであるから、次女の門出を見届け心から祝福したい。
上手下手ではなく、書くことが愉しい |
還暦を過ぎて始めた我流での書の時間が、最近以前にもまして好きになりつつある。インターネットをはじめとする、電脳ITライフからはますます見放されたかのような、(する気もないしデジタル生活は最低でいい)わが暮らしの中で、静かに墨をすり、筆で文字を書き連ねるいっときは、初老男にとって、今や貴重な精神生活時間である。
シェイクスピア作品の長いセリフを、写経ならぬ、筆写しているのであるが、いよいよ声が出せなくなったり、弓が引けなくなったり、小さな旅ができなくなったら、筆を持てる間は筆写を続けたいと、最近思う。最後は、土と戯れ、書と戯れ、歌を読み、そして酒を飲み、よれよれであれ、よれよれだからこそ花鳥風月時間をと、夢見る。きっと夢見るようには、結果が訪れなくても、それはそれで甘受する。
先のことを案じることは、愚かなことであるとの側に私は立つ。要は今をこそ日々いかに生きるかということが大事である。先のことが分かっている人生は、私にはつまらなく思える。
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