人の紹介で始めた、この午前中体動かしアルバイト、早くも一年が過ぎた。このアルバイトのおかげで、心身が安定して過ごせる現在の暮らしを、ことのほかありがたく享受している。
まさに老いてゆくということは、限りなく時の速さを感じるものである。だからなのだと思う、今の暮らしの中で、まるで自分を慰撫するかのように五十鈴川だよりを書き続けるのは。
やがて肉体という器は、命を閉じる。そのことの、老いの行く先を、どこかにかすかに自覚しながら、この年齢で体が動くことへの、日々の感謝を、天空の下で雲の流れを、木の葉の揺れ、小鳥を眺め、雨や風を感じながら想う。
野外、自然の中地面の上で、天空の下で働くのが私は一番好きである。31歳から34歳までの富良野でのまるで修行のような生活、40歳から22年間働いた中世夢が原での時間が、まったく私の物の見方や、世界観を変えてしまったのである。
ジュリアス・シーザー5年ぶりに読んでいる、新鮮である。 |
61歳で遊声塾を始めた時、無謀、(いまもどこかでは思っている)であるかもしれないと思いつつも、どこかさび付いた身体を、今一度緩やかに見直し鍛えないと、シェイクスピア作品のあの魅力的な登場人物の聲は絶対に出ないし、最低の声量をキープするためには、トレーニングが不可欠なのである。
天空の下で、虚空にむかっての、地の果てに向かっての声を放つ感覚が、必要なのであると最近とみに感じ始めている。机の上での、小さなぶつぶつ声出し、対極的な外での声出し、この2極を振り子のように行ったり来たりしながら声を出すことの重さをおもう。
そして、声を出せばその日の体調のあんばいが何とはなしに、わかるようになってきたのである。ヒトは心身が健康でないと、なかなかに生きた声は出ない。シェイクスピアの登場人物の台詞を声に出すことで私の現在値をはかっているのだ。
無謀を承知で始めた遊声塾、あっという間に7年目も半ば、今夜は8月最後のレッスン。シェイクスピア作品は、老いゆく私をいまだ鍛える。ままよ、ならば先のことは考えず、今を生きる声を、と体にしがみつく私である。
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