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2019-08-11

今年のお盆休みは読書中心に過ごす。

夜が明けてきた、明けない夜はないとのコトバを、五十鈴川だよりを書き始めてから、なんど思ったことだろう。囲炉裏通信から五十鈴川だよりに転じて8年目、書くことでささやかに、どれほど小生の日々が、つたなくも彩られてきたことだろう。(併せたら10年以上書いている)

自己暗示、自己激励、自己満足、自己実現、自己日記、、、。論より証拠、よたよたとではあるが、毎日とまではいかないものの、とにかく書き続けることの小事の志の積み重ねに、結果、無意識に鍛えられてきたのだということを、最近自覚する。
本当にいろんなことを教えられる、考えさせられる。

これはいいことなのか、悪いことなのかは判然としないが、書くという営為がさほど苦にならないというか、もっと書けば書くことが徐々に、声を出すことと同じように好きになりつつあるような気さえしている、自分というのは変化するのだ。

何度もかいているが、10代の終わりまで、読んだり書いたりすることは、まったく苦手だった。だが今、本のない暮らしは小生にとっては考えられない。老眼ではあるが、しっかりと本の文字が見え、読めることの幸堪の有難さを、老いつつ感謝しないではいられない。

読書するにも、集中力持続力感能力、つまりは気力体力が不可欠、文章をかみ砕いて食べる健康な胃袋が不可欠なのである。文字・コトバには民族の歴史意識、言霊が潜んでいると、最近とみに感じる。


夕闇迫る中の青空、甲子園球場を後にする際に撮った一枚

言葉や文字は、いたく想像力を刺激する。これがあるからこそ本が読めるのである。そして、人間に与えられているもっとも私にとって大事な事、それは感動する、突き動かされる器であるということである。

感動しなくても、何かにへーっと驚かされたり、感じ入ったり、ものごとを多面的に思考判断するには、コトバでもって自分を磨く以外にほかに方法がない、今のところの私には。

言葉は行動・感動の源、気づくのがいささか遅きに失した感も、正直あるものの、五十鈴川だよりが少しでも豊かさを増すように、良き日本語の先人たちの文章から学び続けたいと思う初老生活、お盆間近の盛夏である。


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