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2019-08-21

立て続けに養老孟司先生の御本を読んで想う夏の終わり。

夜中雷で目覚め、雨音を聴きながら再びうとうと、結果いつもより一時間近く早く起きた。外に新聞を取りにきゆくと雨はは上がっていた。

バイトに出掛けるにはまだ時間があるし、本を読んでもいいのだが出かける時間まで、わずかでもいいから、何か書きたくなった。虫の音をこの数日耳にした。日中はまだまだ暑いが、季節は確実に秋に向かっている。

厚い雲に覆われているせいでもあるが、日が昇るのが確実に遅くなっている。これから秋が来るのが本当に楽しみである。この夏も(油断してはいけないが)何とか乗り切ったのではないかという、安ど感に襲われる。

肉体労働を願う私としては、やはり夏を乗り切るのが、65歳を過ぎてからの課題だからである。私なりの一つの晩年の過ごし方の小さな目標として、見つけたのが一年でも長く、とにかく体を動かすということなのである。

いきなり話は変わるが、養老孟司先生の本を立て続けにこのところ読んでいるのだが、先日の五十鈴川だよりに写真をアップした、読みやすくわかりやすい【運のつき】という御本の中にかかれていたのだが、体を動かすということは、脳の半分を動かすということが書かれていたのである。

ほかにも随所に腑に落ちることが書かれていたのだが、興味を持たれた方は是非本を手にしてほしい。働くかなりの層が都市化した環境に暮らし、身体を置き去りにした便利な場と空間暮らしを、続けている現代人に対して、先生は限りなく憂慮をされているのだ。

先生の御本を繰り返し読むと、凡夫のわたしでもゆっくりと脳にしみわたる様に、コトバが届いてきて、自分の体が欲することを、これからの人生時間素直にやりたい私としては、大いなる啓発を受け、限りない勇気を先生の言葉から受けるのである。

私が事あるたびに先祖帰り、無意識的本能のなすがままに、故郷宇納間の地を目指す根拠が、単純明快に、先生の御本を読んでわかったのである。
愚直に生きることを楽しめるのか、楽しめないのかそこが問題だ

私を含めた現代人は、便利さの上に胡坐をかき、あげく自分自身の足で歩くことを忘れ、負のスパイラルの連鎖の中で、もがき苦しんで出口が見えなくなっているのではと、警鐘を鳴らしておられる。

時間がないので落ち着いて書けないのだが、先生の御本はこれからの人生時間をいかに生きるかにおいて、重要な事ばかりである。当たり前のことを愚直に繰り返す事の辛抱、努力、根気の大切さ、平凡を繰り返しきちんと生きることの非凡さが語れている。

かけがえのない、替えのないこの体をフルに使うことの、汗をかきながら考えることの大切さを、わかりやすく説いておられる。昔の人たちがいかに真っ当であったのかがよくわかる。だから私は今後ますますご先祖詣でを繰り返し、あの森の中で静かに息をしたいと願うのである。命のありかを確認するのである。

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