ぎりぎりのところで知恵を絞る。そうやって生き延びて運を引き寄せ、生き延びている私である。世の中に出てふわふわと生きていたので、将来の不安をどこか心の底に抱きながらも、巡り合わせた時代の勢いに助けられ、何とか現在の幸運を生きている。
先日も書いたが、貧乏性の私はささやかな幸運が続くと、何かよからぬことがこの先起こるのではと、ちょっぴり不安を覚えるのだが、これまでもそうしてきたように、その時はその時である。
そういう意味で前回書いた、弱きものの生き方という対談集は、これから先を生きる上で、実に初老男に勇気と希望をもたらす御本であった。やはりひとかどのことをなした方々は、人知れず営為努力を積み重ねているのである。普段の小事の心がけ。
学ぶ努力、謙虚に学ぶことの大事が、終章のところで語られれている。五木寛之さんが、幼少のころより身体が弱く、よく扁桃腺を腫らして、いろんな病気にかかり、(まったく私と共通する)後年今でも歯医者以外はお医者に行かず、病気は治すものではなく、治めるもの、つまり普段から養生するものであると、語ってられたが、深く私などは同意し得心した。
部屋から望めた昨夜の月、月光浴で身体を洗う。 |
養生、つまり普段から自分自身の体と対話するかのように、どこかに痛みや熱、だるさなどが生じた場合、あれやこれやの養生を自分自身でほどこすとのこと。それであのご年齢で今もお元気に仕事を続けておられる、そのしなやかでおれそうでおれない、独自のオリジナルというしかない、健康哲学には敬服した。
大いに少しでも参考にして、学びたく思う。健康食品などのCMや、薬の乱用の世相、あるいは医者にかかる人の(頼る)あまりの多さに、うんざりしている小生としては、人の弱みに付け込むとまではいわないが、そういう商売がひきも切らず続く、世相にはできる限り関わりたくはない。
ハッキリ書こう。長生きではなく、今あたえられているこの一日を、いかに細胞がよろこべるかのように過ごすことができるかということこそが肝要、だが人間は弱い。だから、知恵を先人たちに習い絞るのである。
ぎりぎり絞れば貴重な一滴の知恵も湧いてくる。怠惰な自分との闘い、歳をとれば体は徐々に老い痛んでくる。だから用心、養生、(しながら逃げずたたかう)人生は過酷である。
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