でも、レッスンするばかりがレッスンではない。シーズンオフというものがあり、休息のない体は、やはり駄目である。よく休んだ新鮮な体でないと、新鮮な声は出ないように思う。
養老先生の御本を読んで、人間の細胞は日々入れ替わり、おおよそ7年で骨まで全部入れ替わるそうである。だから刻々と変化する、してゆくおのれという器を、あるがままに受け入れてゆけばいいのだ、とちょっぴり安心するのだ。
情況ほかに本能的に変化してゆくのが(正当化しているのではない)いわば当たり前なのである。ぶれない自分などというものはありえない。とくにこのような急激な時代の変化に対応してゆくのに、揺れない方がいささかおかしいのである。
でもこれまた、絶対矛盾なのだが、日本的な心情みたいなものに、あの人は芯がぶれなくてすごい、などといった評価が強く、以前は私もそういった考えに強くひかれたりもしたのだが、最近は年のせいだと思うが、オポチュニストでよかれ、と思っている。
他者にどういわれようと、柳の風と受けとめるにしくはないといった風情のわたしである。自分でも思いもかけない変化である。
遊声塾を6年続けているが、この6年間の自分の中での変化は、自分が一番感じている。逆に言えば、変化し続けているからこそ、シェイクスピア遊声塾は続いているのである。
ゆく川の流れは絶えずしてもとの水に在らずである。昨日の自分とは違うことを想う自分がいることを、熟慮の果てに良しとしようとの思いである。例え他者に変質したと思われても致し方なし、自分に忠実にゆこうとこの年齢になりようやく覚悟が固まってきた。(気がする)
死体と対話してきた先生の言葉は重い、そしてユーモアがある |
その集中時間帯は、何かが自分にまとわりついているかのような感覚になる。思わぬ世界を揺蕩って旅をしているかのような。こういう暑き夏をやり過ごすには涼しいところでの読書に限るというのが、今年の夏の私の過ごし方である。
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