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2019-08-06

夏の雨上がり、初老男は瘋癲老人と化す。

午前中重い雲が垂れこめていた中、何とか仕事を続けていたが11時過ぎくらいからぽつりぽつりと雨が落ちてきた、このところの炎天下に悲鳴をあげそうになっていたわが体は、初老であることさえ忘れて、雨でずぶ濡れになりなりながら何とか仕事を終えることができた。

からからに乾ききってた芝もにも慈雨であり、農作物にとっては待ち望んだ恵みの雨になったに違いない。これを書いている今、雨は上がった。涼しいとまではいかないが、うだるような暑さの夕方ではない。だから、単細胞初老男にとっては実にうれしく、夕餉のまえの一時何か書きたくなるのである。

子供のころ夏の夕方、よく雨に打たれた記憶がある。驟雨、思いがけない雷の音と共に、やってくる夏の夕立、上がった後のなんとも言えない大地の熱を一気に冷ましての静寂。すべての人間がどこかほっとする。雨の力の何と偉大な事か。

 夏にしか見ることのかなわぬ、雲の形。 全てが懐かしく、この初老男は一気にいまだに、こころが、少年のあの日に還る自由を持ち合わせている、お気楽な初老男というほかはない。。

だからこのようなことを臆面もなくつづれる。だが書きながら、背中をはじめあちらこちらに、年相応に自然な当たり前の、若くはない痛みも抱えながらも、こころは少年に帰れるという、いわば絶対矛盾の有難さを生きるのである。

少年の心も、ジジイの心も、こころに変わりはないのである。ただ外見があまりにも様変わりの様相を呈しているだけである。
文句なしカッコイイ日本人の一人である、いちみりでもあやかりたい

歳を重ねてわかることがある、それはきっと老いないと分からない。だからもっと老いれば、もっと老いが実感としてわかってくるのであろう。【リア王を読んで本当に良かった】変なは話というなかれ、これこそがひょっとしたら、老いの醍醐味かもしれない(と思いたいのである)。

老い、これから経験するこれからの時間こそ、ひょっとするとわたしに残された、少年期とは異なる、第何番目かの黄金期なのかもしれないという淡い、初老男幻想奇譚に、今後折々五十鈴川だよりは、思わぬ変貌を遂げるやもしれぬ。

と、こんなことを書ける自由の素晴らしさを、たまさかの雨は私に妄想をあたえる。コトバをもてあそび、このような戯言を書いて遊んで間もなく、夜のとばりが下りてくる。

さあ、これからは【夏の夜の夢】の時間帯に入る。昼とは全く違う自分に変身する、そのことが人間に与えられた素晴らしさ、想像力の特権である。

グダグダと書いているが、五十鈴川は流れるように流れるのである。



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