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2015-04-29

怜君のお誕生日、お父さん家族が岡山にやってきます。

この一週間は畑で過ごす時間が極めて長く、今日もまた午前中は5時間を畑で過ごし、お昼は家で済ませ約一時間お昼寝をしてから、忙中閑ありのブログタイムである。

日差しが強く雨が降らないので、夕方3時過ぎから再び畑に向かうというのが、私の農のスタイル。

だいたい朝6時には畑にゆき 朝陽を浴びながら始動、夕方は6時半過ぎ今度は夕日を浴びながら帰宅するといった塩梅。

夜は9時過ぎには床に入るといった具合だ。今週は塾がないので畑の方に十分に時間がさける。塾の日は努めて農の仕事はオフにしようと思っている。

今のところ、この2足の草鞋生活がことのほか私は気に入っている。手前みそだが、(以前も書いた気がする)、よもやまさかこのような晩年ライフが始まるとは思いもしなかった、潜在意識は具現化するのだということを、最近思う。

もう丸6年以上ブログを書いていると、書くことはなくなるのではなんて気もするのだが、あにはからんや、日々生きているのだから、書く時間と書きたい気持ちが持続すれば、五十鈴川だよりは、のらりくらりと流れゆきます。

アクセスが気持ち増えているような気がしておりまして、 ありがたいことだとは思う反面、毎日は書けないのでそこのところは御容赦ください、とお願いするしかない。
我が家を彩る花々

さて、怜君のお父さん家族がすでに東京に月曜日に無事到着し、怜君が仕事を休んで 初めての日本を案内している。

のラインに入ってくる情報では、楽しんでおられる様子がうかがえる。

明後日には岡山に入ってくるので、我が家は一気ににぎやかになる。何かとてもうれしく楽しみだ。

家族問題がニュースにならない日はないが、私もあらためて家族とは何か、という問いを自分の中で考え続けねばならないという気持ちが強くなったきがしている。

それは私にとっては身体的感覚ではとおい、愛という問題を考えるということと同義でもある。午後の時間なきブログでは手に余る。

ともあれ新しい家族といよいよもって交流が深まってゆく、この意外な自分でもわからない展開の成り行きを、いまは楽しみたいと思う。

岡山初日、5月1日は怜君の誕生日、ささやかに我が家で夜はパーティーでのスタートします。人間に与えられている感覚で私が最もありがたいと思うのは、人間は感動する器であるということ、です。

どんなにささやかで、小さきことであれ、何事かに心ときめく感覚が持続するような暮らしを見つけてゆきたいと、五十鈴川は思うのです。

ともあれ、もうすぐ、おそらく人生で最もうれしいGWが始まります。そのためにぎりぎりまで畑で働きます。これから妻との買いものを済ませ、夕方再び畑に趣植えたばかりの(3反全部手植えしました)チシャトウに水をやりにゆきます。

2015-04-26

赤坂真理著【愛と暴力の戦後とその後】を読む。

歳を重ねても自分自身の本質的な何かは変わりようもないが、少しずつ老いてゆく中で、世間でよく言われるように少し丸くなってきたような感覚がある。


漸くにして、いいことか、悪しきことかは判然としないが、もっといえばいいも悪いもない、マクベスの魔女の言葉ではないが、いいは悪いで悪いはいい、とでも言いようがないような感覚に襲われる。

自分の日々の生活は穏やかに流れてはいても、こうも国内外の悲惨極まるニュースが瞬時に伝えられ、消費され忘れ去られてゆく中にあって(自分のことです)、いやでも見て見ぬふり的にならざるを得ない、ある種の忸怩たる感覚、思考停止感覚。

歳を重ねると、怒りの感覚を含めどこかが訳知り的に鈍感になり、みずみずしさが失われてくるのではないかという気はするが、幸いに今のところ、ブログを書き続けているせいか、かろうじて自分の中では、世界の今と対峙している感覚をキープしている。

そのような現在の暮らしの中で、赤坂真理著【愛と暴力の戦後とその後】という本を読んだ。私より一回り若い方の本だが、私が最近読んだ中では出色の本である。

中身については、関心のある方は是非読んでほしいとしか言いようがないくらいに面白い。戦後70年を きわめて個人的に、皮膚感覚で論じた日本人論。

この本は私にいろんな事柄を突き付けてきて、手に余る大きな問題からは目をそらしがちになるところを、ピタと見据えてゆく。

その態度が、著者ならではで読んでいて実に気持ちがいい。戦後生まれの私にとってはどの章も若い方に教わる気持ちで、うーんとため息をつきながら読んだ。勇気ある問題意識の高い方の本、素晴らしい。もう一度読みたい。

2015-04-25

春の宵闇、M氏と二人だけのレッスン。

塾はお休みだが、昨日夕方6時から2時間M氏とささやかにレッスンもかねて、二人でシェイクスピアを読んだ。

場所は西大寺の百科プラザの和室で。定年退職後、しばし私はこの部屋を使って一人の時間を過ごしていた懐かしい部屋である。

数年ぶりに使用したのだが、きわめて個人的な少人数でのレッスンには、この部屋はまことに持って安楽である。

畳なので、日本人である私には静かに落ち着いて本を読む、あるいは体を動かすには最適なのだ。

さて、M氏はネギがご縁で入塾された、これまた私にとっては機縁な方の一人なのだが、心優しき男子である。年齢は40代の初め。

この過酷極まりなき競争社会においては、氏のようなやさしさの持ち主は、生きづらいことがまま多いのではないかと、勝手に推測している。
二反の畑に一人で植えたチシャトウ

入塾したばかりの氏が、シェイクスピア遊声塾でのレッスンで、今後どのように変化してゆくのか、はなはだもって私は個人的に楽しみにしている。

もう丸2年になる塾生の一人Y氏もそうだが、シェイクスピアの作品を読んだこともなく、

まったくこれまでの人生では縁なき世界から入塾してこられた方が、

意外といっては失礼だが、思わぬ持続力と変身を楽しんでいたりもするから、つくずく人間は意外性の器というしかない。

わたくしごときの人生であれ、まだ道半ばだが 変化し続けてきて現在があるし、変化する可能性を持続するというところにこそ生きることの妙味があるとさえ思う。そのことこそが私にとっては贅沢なことなのだと、自覚する最近なのである。

春の宵闇、男二人でただただ間違いの喜劇を読む。3階の和室に無心の声が響く、ほかには誰もいないので思い切って声が出せる。すべての煩悩から解放されるひと時。

二人での掛け合いのシーンだけを、メインにレッスンする。気の合う相手とのレッスンはうまいとかへたとかを、超越した楽しさが自然と生まれてくるのである。

子供に還って遊べるのである。 年齢もしばし忘れ、脳のシナプスが活性化してくるのが何とはなしに分かる。時折勢い余ってのどがつまったりもするが、これも生きてればこそと、楽しい時間をいつくしむ。

お互いをさらけ出して声をだして遊ぶ。やっていてわかる、このために自分は塾を立ち上げたのだということが。

この魑魅魍魎の現代社会の中にあって、この世に生を受け たまたま出会うことができ、ともに翻訳された日本語によるシェイクスピアの作品を、いま生きているからこそ読めることの老春至福感が私を包む。

M氏がわずかなレッスン時間なのに声が活き活きとし始める 。無心の稽古のなかからしか本当の声は生まれえない。うまい下手ではなく、生きたリアリティの感じられる声こそが、私には素晴らしいのである。

M氏とは時折、時間外個人レッスンを今後も重ねたいと私は思っている。人間とは摩訶不思議な不確かな実在である、だからこそ面白い。そのことを出会えた少数の実在と楽しみたいと思わずにはいられない。




2015-04-24

20年ぶり、T氏とシェイクスピアの生誕の日に劇的再会をしました。

一昨日で塾はGWに入り2週間レッスンはない、しばし私もつかの間の休息を自らに与えたい、とは思っている。

お正月が過ぎてから、この4か月かなり多忙で充実した時間を過ごしてきたので、まことに持っていいタイミングでのGWというわけだ。

何よりもうれしいのは、怜君のお父さんたちが初めて日本にやってくることだ。いこくにできた親戚をどのようにおもてなしできるかはわからないが、我が家流の自然体で臨むだけである。

目に若葉の時候のいい季節なので、まずはおひざ元の西大寺近辺で 、初日を迎えるところからスタートするが、どのような滞在になるのか、はなはだもって楽しみである。

人生の晩年に向かって、うきうきわくわくするような 出来事が重なってゆくことは、実りある果実のひと時というしかない。

それもこれも巡り合いの縁、お導きというしかない。気恥ずかしくもあるのだが、感謝の念を深く持って生きるように心かけるようになってから、物事がすべてやんわりと好転の兆し。

さてそのような日々、昨日20年ぶりくらいにとある方と本質的に再会した。これもまた何かのお導きというしかないくらいの、私にとっては劇的というしかない再会のひと時となった。

短い文章でT氏との再会を伝えることは、叶いもしないしする気もないが、岡山にやってきてこんなにも素敵に生きている、古希を過ぎたすがすがしくも若々しい同性に初めてお会いした。

初めてお会いした時から、心に残る、 私にはない世界、感性をお持ちの方であることは直感していたが、細い糸でご縁が切れず、お年賀でのお付き合いが続いていたのだ。

その方との劇的再会は、氏が先日の遊声塾の発表会に足を運んでくださったことから、機縁が復活した。

おおよそ3時間近く、我々は夢中になっておしゃべりをした。年齢は私よりずっと先輩だがそんなことはどうでもいい、その少年のように夢中になれる多岐にわたる世界をお持ちのT氏に私は深く打たれたのである。

後半の時間はほとんど私は聞き役、氏が今現在創造している日本語漢字文字の言葉遊びの世界があまりにも、ユニークで面白かったからである。
我が家のキンカンやっと収穫しました

うーん、うなった、参った 、愉しかった、という時間が瞬く間に過ぎた。氏はシェイクスピアの言葉遊びの世界に関心を持たれ、塾の発表会に足を運ばれた由。

発表会を終えた直後、氏が近々会いましょうと言ってくださったので、お約束が昨日実現したというわけだ。

理屈抜き、その人らしい世界を絶えず楽しんで追求しているかたというのは 、かくもすがすがしいのである。

そのことを、氏は私に実感させた。生も死もある種超越したかのような境地で、今ある生を心から楽しんで生きている人に、岡山にやってきて初めてお会いした感、私は打たれた。

何より私がうれしかったのは、私が今もなお、遠くに仰ぎ見る仕事をされた、今は亡き桃山晴衣さんのことを話すと、氏はレコードと本をお持ちだというではないか。このようなことは男性では岡山に来て初めてである。

挙句、私を自分の家に招き、(氏は岡山の禁酒会館で数十年クラッシック音楽専門のレコード店を経営されていたこともある) 桃山さんのレコードを聴かせたいと言ってくださったのである。

私はGWのち、氏のお宅に伺う約束をした。先輩は私のことを類は友を呼ぶといってくださったが、とてもとてもの感が私にはある。

ともあれ、氏が発表会に来てくださらなかったら、このような本質的再会の出来事も起こりえなかったとしたら、まさに私にとっては、演劇的な再会というしかない。


2015-04-20

GW・怜君と娘の結婚報告会が岡山で行われます。

いきなり個人的なことで恐縮だが、あと10日もしないうちにGW、我が家にとってはビッグイベントがある。

それは、昨年ドレスデンで式を挙げた娘たちの日本での 結婚報告会が、5月4日に岡山で行われるからである。

宮崎の私の姉夫婦や兄夫婦をはじめ、妻の姉夫婦など、身内でドレスデンまで足を運べなかった方たちへの報告会となる。

ドレスデンからは、怜君のお父さんご夫婦と息子さんが参加してくださる。お父さんのピーターさんたちは1日には岡山にやってきて、我が家に5日ほど滞在することになる。

怜君と娘、それにドレスデンからやってくる友人を入れると、一気に6人が泊まることになり、我が家は満室になる。

こんなことは初めてといってもいいことなので、無理して少し大きい家を建てたことが、功を奏したといった塩梅だ。

ドレスデンではあらゆる点でお世話になったので、妻も私も用意万端でお迎えするための知恵を絞っているが、妻の頭はまさにフル回転といった様子で、家の中の衣替えや、ガーデンで食事したりするので、ささやかな 大工仕事もやっており、そのはつらつぶりは私を驚かせる。
 ガーデンパーティーができるように妻が整えた庭 

10人が一度に何回も食事をすることになるから、献立から食器まで我が家に眠っていたものまで総動員して乗り切る予定。

 GW,どこも混んでいるし移動も大変、できるだけ外食は控え 我が家でのおもてなしを、と妻や母は考えているのである。

1999年末、身に余る家を建てたのだが、いざというときにはやはり重宝する。私は小学校5年生まで9人の家族生活を経験しているので、時折のにぎやかな暮らしは大歓迎である。

兄や姉がわざわざ宮崎から6人来てくれるのも実にうれしい。我が家に泊りはしないもの3日と4日は岡山どまり、3日は我が家にやってくるので、16人が一堂に会することになる。

娘が異国の男性と結ばれると、こういうことに現実なる。兄や姉も怜君と娘を心から祝福し楽しみにしているので、私としてもうれしい。怜君の人柄というしかない。

めったには訪れない、一族全員でのハレのひと時は、人生にそうは何度もあるものではない。旧東ドイツ時代、私なんかには想像もできない経験をされてきたピーターさんたち、記憶にはないものの北朝鮮から引き揚げてきた姉兄。

苦しい生活を乗り越えてきた世代が、これからの世代を祝福する宴。私にとってこんなにうれしいことはないのだから、母にとってはなおさらだろう。

ともあれ、私にとっては人生で最もうれしいGWになることは必定、感謝しかない。



2015-04-19

精神と身体が連動する暮らしとは。

昨日は、久しぶりに体をくたくたになるまで動かし、一日中畑で過ごした。今年の春は雨がやたらと多く、動ける日が限られるので、やれるときにやるしかない(ここ一番の集中力)からである。

でも有難いことに、私の場合、雨の中は雨の日でやることが次々にある今の暮らしを、ことのほかに楽しめる、充実した老春の日々が おくれている。
橋爪大三郎さんの本、教わることは楽しい

すべてはおかげさま、健康である体あればこそというしかない。

実年齢にしては体がよく動いてくれるので、何とか下り坂をの体に感謝しケアーしながらの日々をと、つとに塾生が増えてから、思い至るようになってきた。

特段のトレーニングのようなことはしていないが、畑で体を動かすことが 、私の場合、私なりのトレーニング的要素をしめていて、体のいろんな動きを意識して動かしている。

草刈は集中力を養い、有酸素運動がかなりできるのである。一日1時間もやれば十分である。チシャトウの苗を植えたりするのは、立ったりしゃがんだりの繰り返しが多いのだが、これもスクワット的に自分で工夫してやっている。

何事も楽しむ工夫をしないと、単なる労働となってしまうので、私はつまらないのである。青春の終わり、富良野塾で限界まで体を動かして鍛えられた経験は、いまとなってはこれまた私の宝である。

頭は、足腰の一番上に乗っかっている。ふらふらした足腰の上にある頭は危ないのでは、という気が私はしている。人間が弱気になるのは、私の場合は体の動きが弱った時である。

若い時には強気でどんどんいけるが、歳を重ねるとそうは問屋が卸さない。そこで工夫しなさいと、あらゆる優れた先人たちが語っている。

特に畑仕事や声を出したりすることは、いやでも自分の体と向かい合うしかない。だからそこが私には面白いのではないかと、自分なりに考えている。

あらゆる一日、気の流れ体の循環を良くしてゆけばいいのかを、還暦後いちだんと考えるようになってきたように思う。ささやかな自分の居場所でつましくも楽しく生きてゆく方法、自分(自分が考えているのではないという気も最近はしています)で見つけるしかない。

2015-04-18

西大寺の百科プラザで塾生と声をだす。

眼が覚めたら夜中の3時、どういうわけか起きた。まだ体はぼーっとしているが意識がとても純粋な時間帯。

さて昨日のことを少し、朝一番朝日を浴びながら畑の草を草刈機で すこし刈ってから家に戻り、庭の薪を(もうストーブの季節は終わったので)邪魔にならない場所にかわした。

お昼を済ませてから少しうたたねをし(これが私の無上の楽しみ)まき割り30分のトレーニングをすると3時近くになっていた。

3時半から6時半まで、西大寺の百科プラザで4月1日に入塾したばかりのYさんと、3回目の個人レッスン。前回も書いた気がするが、仕事の関係でYさんは4月の水曜日は参加できないにもかかわらず、即入塾してくださったので他の日にレッスンをしているのだ。

自分の娘くらいの年齢といってもいいくらいの、若い方との二人だけのレッスンは私には初めてといってもいい。私が富良野塾で青春 の最後の日々を過ごしたころの年齢に近く、世代は異なるがどうしてもあの頃の、自分をいやでも思い出して、ある種の感慨にとらわれる。

年齢は戻れないものの、気持ちがなにか新鮮にレッスン できるのである。自分の中の邪心が消えて、自分で書くのも気恥ずかしいが、あのころの純粋な自分に還れる時間帯を生きているかのような心持にさせられるのである。

Yさんの声には、いい意味での無職透明な 声質が私には感じられるのだ。私が社会の中で生きてゆくために身に付けた精神の垢(時に自己嫌悪に陥る)を落としてくれるかのような。

よく、教えることは学ぶことだといわれるが、まさに 汚れちまった哀しみが洗い落とされるかのような感覚を、いただくレッスンなのである。

先週に続いて、ロミオとジュリエットを読み、長い芝居、膨大なセリフを二人で読み切った。映画ではあるが私自身を、W・シェイクスピアと国や時代を超えて出会わせてくれた、私にとっての記念碑的な作品。

14歳のジュリエットと、16歳のロミオが青春をまさに疾走する、悲劇。おそらく今も世界中の国々にこのような、若者たちが 存在しているはずだ。アラブでも、私は想像する。

だから、今もロミオとジュリエットの物語は上演される、が現代ほど私も含めて、グローバル化の中で、何やら心がお金という魔物で席巻されると、なかなかにリアリティが持ちにくい。

でもだからこそ、いまあらためて読むと、初老のおじさんは、大人という無理解な人種に自分が陥っている心が洗われるのである。

ひょっとすると、還暦を過ぎあのころに(もっと小さい頃も含め)還りたい症候群を、自分の中で昇華するための時間を過ごすために、塾を無意識にも立ち上げたのかもしれない、とさえ最近思うのである。

汚れちまったおじさんにとって、塾生たちとW・シェイクスピア作品を声に出して読む時間が至福のひと時になってきたのを実感する。
今日もまた心の鐘を打ちならし声をだす

塾を立ち上げて3年目に入ったが、人との出会いが人を豊かにもし、その逆もまた在りうる人生の苦い真実。

シェイクスピアが人間を冷静に恐ろしいまでに見つめた言葉の数々は、いまを生きる私の胸を打つ。

あとどれくらい元気にシェイクスピアを声に出せるか、なんて余計なことは考えず、今レッスンできる目の前の相手との時間を大切に生きたいと思う私である。

五時半過ぎ、これまた入塾したばかりのM君がやってきた。二人には、間違いの喜劇の冒頭シーンを40分読んでもらってレッスンを終えた。

外に出るとまさに春爛漫のさなかの太陽が、まさに沈もうとしていた。おなかを空かせ家に帰ると、妻が瞬く間に夕飯をこしらえてくれた、感謝。


2015-04-16

遊声塾の今年のテキストは間違いの喜劇です。

何やら書いて一日をスタートする。自分でもちょっと信じられないくらいくらい、4月に入ってブログを書いているのはなぜか。
私が尊敬する演劇人ピーターブルックのドキュメンタリー映画のチラシ

やはり書きたいことがある今の暮らしを 、唯我独尊的であれ記しておきたいという、ことなのだと思う。

さてまたもや遊声 塾のことを少し、発表会を終えて、昨日から本格的に塾はスタートした。テキストは、間違いの喜劇。個人的に意味もなく大好きな作品。

 シェイクスピア作品の中で一番短く、 シェイクスピアが一番最初に書いた作品だといわれている。全編これ言葉遊びといった感じだが、理屈抜きに楽しいおおらかな作品だ。単細胞の私向き。

月に2回しか参加できない人もいるので、全員で読むのはなかなかにむつかしいのだが、昨夜は私も含めて、6人いたのでそれなりにいい感じでのレッスンができた。

3年目にして初めてといってもいい、6名でのレッスン。私にしかわからない喜びに満ちた時間が流れた。今もそうだが、私には無謀な塾を始めるといった認識があった。

よしんば塾生が 集まらなくても、最低3年はひとりでもやろうと心に決めていた。晩年時間一人静かにシェイクスピアを声に出して読むことの(読めることの)有難さを、自分の中ではっきりと自覚していたからである。

それと畑仕事、最低生活で最高の生活が自分の中では送れるという自信のようなものがあったからだ。私と感応できる酔狂な人間がきっと岡山いて、出会えるというかすかな自信も。

今塾生が7名、一人で読むのとは全く異なる時間が流れる。一人一人の声が稽古場に響き渡る。至らなさのすべてをさらけ出して (さらけ出される)全員必死で言葉にくらいついてゆく。今が世界のすべてである。

漸くスタートラインに立ったかのような嬉しさが、ブログを書かせているのかもしれない。十二夜であれだけの短時間で、何とか発表会にこぎつけた面々が一年後どのように変化するのかしないのか、そのことが実に楽しみである。

出会えた面々が、アクションを起こすことで意識の変化が生まれる。新しい感情が日々生成されてゆく中での思わぬ自分自身の声との出会いが、シェイクスピアの言葉を発することで生まれる、自分を発見する。

それは、時につらい稽古を持続するなかで、勇気をもって楽しめるくらいの覚悟が、肝が据わっていないと難しい。険しい山には登ったものにしか見えない景色といったものがあるとしか言いようがない。





2015-04-15

素敵なお便りをTさんから頂きました、そして思う

55歳を過ぎたころからは特にそうですが、あまり人が来てくれそうもないような企画をするようになってから来てくださるようになったTさんというかたから、人柄のにじみでる心のこもったお手紙をいただきました。

私も含めて本当に現代人は手紙を書かなくなりました。だからなのです、自省をしないと、という思いに駆られます。せめて、お手紙をいただいたら、たとえ短いお返事をであれ書くということを、自分に課したく思います。

ただ、内容によっては簡単には書けないようなこともありますから、よく考えて書くということが、特に私の場合は必要です。なぜなら、私自身が軽佻浮薄な人間を自認しているからです。

今となっては、ちょっと信じられませんが、私は書くことも本を読むこともまったく苦手な人間でした、18歳までは。 ところが、上京し小さな演劇学校に入ってから、あまりの井の中の蛙の自分を認識するようになってから、ゆっくりゆっくり自分が変わり始めてゆきました。

そうはいっても、生きてゆくだけでひーひーの自分の暮らし。そんなふがいない自分との格闘は本当に長い間続いて(いまだにそんな気がしています)いたのですが、いま思うとやはり、ロンドンでのわずか一年の暮らしが 、私を変えたように思います。

わたしは日記を書くということを、自分に課したのです。高校を出て以来、まったくの自由時間を7年ぶりに手にしたのですから。結果私は、着いた日から一日も休まずその日何をしたかという、夏休みの小学生日記のようなつたない文章を書き続けました。

今も青春の宝として私の手元に残っています。それを見ると今更ながらじぶんの凡庸さがよくわかるのですが、凡庸は凡庸なりに何かにせき立てられるように、ノートに小さな文字でぎっしりと書いています。

日本に戻ってきてから、また元の木阿弥になるのですが、あのころから何かが、自分の中で変わり始めたように思います。苦手なこともゆっくりと克服してゆけるような感覚が育ってきたかのような。

自分なりに世界を見つけてゆく、自分自身から出発するしかない当たり前のことに、気づき始めたというか、人と比較しない、一回限りの人生を悔いなく生きる覚悟のようなものが生まれてきたように思います。

 さてTさんのお手紙の内容は、発表会に行くという予約を入れたのにその日体調がすぐれず、ゆけなかったことに対するお詫びのおたよりでした。

いまどきこのような誠実な方もいらっしゃるということに、私自身が打たれます。アンケートを送ってくださった方もそうですが、私はこのようなまれな人たちとの巡り合いを、今後は一層大切にして生きてゆきたくおもうのです。

一日一日を、とにもかくにもきちんと手の届く範囲を、大事に生きておられる方の たたずまいというものに、漸くにして最近私は惹かれるようになってきました。

身の回りの小事を大切に生きておられる人柄が文字と文章から伝わってきます。このような感性の方と間接的ではあれ、たまたま交遊がもてる(お手紙が頂ける)人生の幸せをかみしめます。

世の中にはいろんな状況を抱えながら、希望を失わず素敵に生きておられる方々がいらっしゃる、そのことを想像すると、ただ単に体が動き、ともにシェイクスピアを声に出せる仲間がいる、そのことだけで何と私は果報者であることか。

少数であれ、波動の合う人たちとの人生時間をつましく楽しく生きられれば、それこそが私のいま望む黄金の日々、というほかない。

2015-04-14

Nさんから永久保存のアンケートをいただきました、そして思う。

もう知り合ってから、相当な歳月が流れた女の方から、こないだの遊声塾の発表会のアンケートが届きました。

このような観客が客席には座っているということの有難さが、しみる言葉がきちんと、感想のところに熟成されて示されていました。

以前わがブログで書いた記憶があるのですが、見ることはまた見られることでもあるという、逆説的真実です。ささやかに私の思いのつまった発表会を、きちんと受け止めてくださる方がいるということ。(残念ながらそういうアンケートはそうは多くはありません、でもそれでいいのです)

今でもそうですが、私自身がアンケートをその場では書けないのです。だから書いてくださる方には、のちほどの郵送を厚かましいかもしれませんがお願いしています。

これまでたくさんの自主企画を個人的レベルでしてきましたが、やはり素晴らしい観客に出会いたいという、私の思いが、いまとなっては支えになっていたのではないかと思えます。

だから、いまでもそのスタイル。切手をはって、手間暇かけてでも書いてくださるようなアンケートを私は待ち望んでいます。

私のブログにもほとんどコメントがないのですが、たまにあるからうれしいくらいに今は受け止めています。たくさん来たらきっと私は困ってしまいます。

話を戻して、いただいたアンケート何度も何度も読みました。なぜ私が遊声塾を始めたのかを、この方は、きちんと受け止めてくださっていました。

アフリカの音楽を説明する野暮なことより、ママディの太鼓を直に聞いてもらう、それが私の答えです。現代人はハートより、頭が先で私はそのような方が、ことのほか苦手です。(謙虚に学ぶということは大切なことですが)

シェイクスピアもそうですが、意味もさることながら、言葉の音に しびれてしまうようなところが私にはあるのです。あらすじ展開だけではちっとも私には面白くありません。
母の家に咲いている見事なフリージアをいただきました

あえて言えばあの音韻の素晴らしい言葉(ずれや誤解で世界は成り立っている)に、今を生きる現代人のハートに届くような言葉を見つけて、痩せてはいても自分の肉体で 響かせたいというところでしょうか。

世界中にシェイクスピアのファンはいるでしょうが、私は単なるそのファンの一人にすぎないといった認識なのです。

そのようなささやかな個人的塾に、何故か塾生が参加してくださっている。それはきっと私が翻訳されたシェイクスピアの日本語を恥をさらして、自由勝手に愉しく読んでいるからではないかと、、、。

時代考証から、多面的にシェイクスピアを相当深く 学び、理解してから声に出して発表会をするのでは私には残された元気な時間があまりにも少ない、足りないといったところでしょうか。

還暦を過ぎたのですから、そう野暮なことは言わず、理解(誤解)と想像力の及ぶ範囲で、声を出して、ひたすら子供のように遊びたいといったところなのですから。

そういう私の遊び心に共振する、広い心をお持ちの方と 私はW・シェイクスピア作品を声に出したいのです。

何よりも私自身が現代という時代の中で酸欠状態に陥っているのを、シェイクスピアの言葉の力を借りて初老の肉体に言葉の酸素を送り込みたいのです。深い呼吸の体を生きることが、今私にとっては とても大切です。




2015-04-13

又吉直樹著【火花】を読む。

昨日、関西圏一日乗り放題チケットを使って大阪の梅田までシェイクスピアの十二夜を見に行ってきた。

芝居を見るのは本当に久しぶり、遊声塾を立ち上げなかったら、そしてシェイクスピアの十二夜でなかったら、まずゆくことはなかっただろう。

短い時間で芝居の感想を書くことは控えたいのだが、ちょっとだけ触れると、まず料金。3段階の値段設定、1万2000円、8000円、5000円、もちろん私は5000円の3階席で見た。

若い頃、ロンドンでたくさんの芝居をシェイクスピアを中心に私は見た。おそらく今でもあると思うが、当日開演直前、売れ残った席があると、学生や年金生活者は、どんなに高い席も1ポンドで(円が強く当時のレートで400円くらい)見ることができた 。

当時フルタイムの英語学校に通っていた私は、学生証なるものを学校が発行してくれ、そのおかげで学費のもとをカバーできるくらい、シェイクスピア作品を見ることができた。この体験は私の青春の宝である。

最高の席で、しかも格安でシェイクスピアを見ることができた私は、本当に夢を見ているかのような至福観劇体験を することができた。

ロンドンから帰って来て、私は日本の芝居の値段の高さから、自分が芝居を学びながらも徐々に商業演劇からは次第に足が遠のき、自分が属する劇団も含めて、小さくて値段が安くて、しかも面白い劇団へと足が向かうようになっていった。

芝居とは時代を映す鏡だと、シェイクスピアは語っている。さて昨日の十二夜の観劇にも、演じる側にも、見る側にも今の時代の面妖な諸相が映っているのをしかと、冷静に観察することができた。

謙虚に私なりにしっかりとシェイクスピア作品を学びつつ、無謀な塾であることは、重々承知しつつもほんのわずかでも、あの豊かな重層的な作品世界を形作る言葉を肉体化したいと、改めて確認した。

そういう意味で、わざわざ大阪まで足を運んでことは、とても私の中でよかったと今思っている。

さて、話は変わる。行き帰りの車中で、又吉直樹著【火花 】を読んだ。私はほとんど小説を読まないのだが、縁としか言いようがない。書評で知り、切り抜いてトイレにはっていたら娘が読みたいというので、お金を渡したらすぐに買ってきた。一心に読み終えたので私も手にしたのだ。

ほとんどテレビを見ない私は、ピースという芸人コンビのことを知らなかったが、そのこととは関係なく読み始めたらやめられなくなり、一気に読み終えた。

読みながら、私が18歳で上京してから31歳までのことが,次々に私の脳裏によみがえってきて、時折数か所ジーンとなった。今となっては青春特有の光と影というしかない切ない暮らしが。

また、私が彷徨った、渋谷、高円寺、吉祥寺、下北沢、三軒茶屋、、、、。たくさん出てくるので 思い出のライブハウスや、いろんな場所のお店や、横町の記憶が生々しく、忽然と喚起されて、とても時折小説を読んでいる気がしないくらい、身につまされながら読み終えた。

いろんな人たちの面影が、亡霊のように脳裏を行き来した。いい小説はその人にしかかけない文体がある。又吉さんは文体をもっていて、表現する力がある、素晴らしい。世界を獲得した人のもつ言葉の力。

私にとっては、リアリティがありすぎるくらいの小説というしかなかった。人間はひとりひとりが言うに言われぬ、闇を抱えている存在なのだとあらためて思う。

その闇を引きずって相(愛)対峙するしか ない。読み終えてそのように私は受け止めた。青春が終わり、そしてまた始まる。私にとってはぐっとくる小説となった。

さて、再びシェイクスピアに戻るがあの青春の日々、小さな劇団で4年近くあけても暮れても、小田島雄志訳のシェイクスピアを声に出したが、よもやこの歳で再び小田島訳でシェイクスピアを声に出すことになろうとは、思いもしなかった。

現時点で、私は出会えた仲間と、リアリティのあるシェイクスピア作品の登場人物の声を見つけたいと考える。それは自分の体で、声で表現するしかない。リアリティとは?永遠の謎のように思いながらも。


2015-04-12

忙中閑あり、塾生と西川のお気に入りの場所でお花見。

塾生に声をかけ来られる面々、私を含めて4人で昨夜お花見をした。西川の私のお気に入りの場所で。

この場所は、以前韓国語を学んでいたと頃に見つけた場所で、あまりきれいなベンチではないが、春から秋にかけて、私はよくこのベンチに腰を下ろし、しばしのひと時を過ごす。

桜のいろんな種類はもとより、ひときわ大きなメタセコイヤの樹木が、西川の用水路にどでーんと根を張っていて、まっすぐに伸びた幹を眺めながらの、いっときは、私にとっては大切な気分転換タイムなのである。

見てはいないが、世界の中心で愛を叫ぶというタイトルの映画があった。世界中の人が、日々の暮らしの世界の中心を生きている。自覚、無自覚は別にして。

若いころ随分いろんな邦を旅したが、みんなそれぞれの居場所に根を張って暮らしているのをこの目で見て、私もささやかに自分の居場所に根を張る暮らしをしたいという思いで、40歳で当時3歳の娘共々、妻の実家の西大寺に移住した。

あれから、瞬く間に23年の歳月が流れた。現役の渦中を生きているので、ゆっくり過去を振り返る余裕はいまだないのだが、 時折私はこの場所にたたずみ、あるいは本をひも解き静かな時間を過ごす。

ようやっと、そういう落ち着いた時間が必要な年齢になったということなのだろうと、私は思っている。
根を生やせるよう塾生と乾杯

さて、そのお気に入りの場所での突然のお花見を、何故か塾生としたくなったわけである。たまたまのタイミング、4人でのわずかな時間、メタセコイヤが我々を見下ろしている中のお花見は、愉しかった。

日暮れ時、塾生3人の 後ろ姿を何とか一枚とることができた。楽しい時はすぐに過ぎる、場所を居酒屋に変え、9時過ぎまで、ゆらんゆらんと、塾生たちとのほんわか至福雑談小宴会を、私は楽しみ、家路についた。

おいしいお酒は、おいしい面々と飲むに限る。このようなひと時は、私には年に4回もあれば十分である。

日常生活をこよなく大切にしながら、これから塾生共々、我々の世界の中心からシェイクスピアを声にだす遊声塾の活動を、メタセコイヤの樹に、見守ってくれるように祈った。

2015-04-11

春の雨のさなか、入塾したばかりのAさんと、間違いの喜劇を読む。

4月1日に入塾したばかりのAさんと、昨日午後我が家でレッスンをした。二人でシェイクスピアの間違いの喜劇を全幕読んだ。

基本的には水曜日の夜が、定例の全員参加のレッスン日だが、 仕事の都合で4月は水曜日は参加できないのに、入塾を即決してくださったので、代わりの日に個人的にレッスンすることに、したのである。

いつもの場所とは異なる我が家での二人だけのレッスンは、やってみて、これはこれでまた有意義なレッスンができるということが分かった。

フルに月謝を払ってくださっている塾生で、水曜日に来れない時には、ほかの日に個人レッスンを百科プラザか我が家でやれることが、はっきりとわかった。

外は降り続く春の雨のなかで、二人してただ黙々と声を出し読み進んだ。Aさんがシェイクスピアを読むのを初めて聞いたのだが、初見ですらすらと臆せず読み進んでゆくので、いつしか私も安心して二人での回し読みを楽しめた。没頭する器、人間ならばこそである。

まずは素読が基本、あとは稽古してあの膨大なセリフに息を吹き込む困難な作業をいかに楽しめるか、楽しめないか、何事も一日ではならずである。

何か、一途な感じがAさんには漂っていて、これからが実に楽しみ。いま現在7人の塾生だが、全員性格がいい。声は偽れずすべてがさらけ出される。数回共に声を出すとあっという間に仲良くなる。

一つのチームとして、抜ける人は抜け、漸く最低の数のメンバーが2年かけて整いつつある。シェイクスピアは登場人物が多いのであと数人いればというところである。

何事にも程よい人数というものがある。 シェイクスピアの塾に、まして私の塾にこのような素敵な面々が入塾してきてくださるなんて、私にしかわからない思いに満たされる。

それにしても予期しないことが、立て続けに起こる春の珍事ではあるけれど、塾生が増えることの出会いによって、こうも塾の雰囲気が変わってしまうということに、今更ながら驚かされる。

人間という器の得も言われぬ魅力は、はたまたどのように醸し出されるのかが、これから実に楽しみな塾生たちである。一年後どれくらい変化するのかが。
私は小田島先生に文学座でシェイクスピアを学んだ

私はこれまでの人生で培ってきたわずかな自分の中に宿る財産を、塾生たちにぶつけてゆく覚悟でいる。私も声を共に出し続けながら、塾生と相対する。

その中から紡ぎだされてくる関係性をひたすら大事にしたい。これは現代生活においては稀な試みなのだという自覚が私の中にはある。


 私も含めた心身ともに痩せ細った現代人が、新しい関係性を 豊かに紡いでいく最適なテキストは今のところ、私にはシェイクスピアをおいてほかにない。



2015-04-10

井上ひさしさんの本には励まされます、学べます。

雨である。晴耕雨読、雨だと、声出し、体操、手料理、(お昼、一人であるもので勝手に作る)整理、掃除、などなど晴れた日の日中には、やれないことがやれる。ブログもゆったりと書ける。

だから畑に足を踏み入れることがかなわなくても、仕方がないという心境で済ませることができる、つまりは余裕を持てる今現在の暮らしが有難い。

先日、レッスンの前ちょっと時間があったので、丸善に行って万年筆のインクを買った。これは母が使えるならあげると私にくれたもので何十年も眠っていた一品なのだが、どのような万年筆であれ、私は使えるのなら大事に使いたいと思ったわけである。

結果は十分に使えることが分かった。意味もなく嬉しい、母に頂いた思い出の品。これで私の万年筆は3本になった。この万年筆のインクは黒に決めた。

こないだの発表会のアンケートが2通ほど届いた。私は簡単なお礼の葉書を万年筆で書いた。本当に久しぶりに兄にも手紙を書いた。これからの私は便りを書きたいのです。(まさに時代と逆行する形ですが)

パソコンで書くという行為と、万年筆や筆で書くという二つの行為で今後はゆきたいと思っている。

ところで、丸善で尊敬する劇作家、井上ひさしさんのセリフ集を買った。(いずれ全集も一巻ずつそろえたいと思っている)宝石のような言葉の数々がしみてくる。


すぐ読めるが、気の遠くなるほどの努力の果てに生み出された珠玉の言葉を前に、心がしーんとなる。墨をすって一言一言を、筆で書きたくなる。また一つ、これからの楽しみが増えた。

シェイクスピアを読むといっても、私は当然翻訳された日本語で読む。翻訳者の日本語による世界観がいやでもあらわになる。

井上ひさしさんは日本語の豊かさを、芝居の中でとことん追求された(しかもわかりやすく)まれなお仕事をされた方だと思う。

無学、無知を自認する私にとって、先生のような方である。その博覧強記ぶりには驚嘆する。何よりもユーモアを片時も忘れないのが素晴らしい。状況はどん底なのに、その中からたぐいまれな言葉が生まれてくる。(安穏とした暮らしでは生まれえないのだ)

その言葉に励まされてきたし、きっとこれからも励まされる。井上ひさしさんは、シェイクスピアが大好きだったみたいで、天保十二年のシェイクスピアという芝居を書いている(全編にシェイクスピアのセリフがちりばめられている)。

言葉が、(話芸)笑いをただで生み出すということの何という豊かさ、奇蹟、私も僭越ながら今後もタダで言葉にしがみついて、シェイクスピアや、井上ひさし先生ほか、日本語の達人たちからささやかに学び続けてゆきたいと思わずにはいられない。

最後に、名セリフの中から一つ上げて、今朝のブログはお開き。

【急げばきっと薄いところが出来てくる。そしてかならずやその薄いところから破れがくる】

2015-04-08

菜種梅雨の朝ブログ。

菜種梅雨というけれど、こう雨が続くとなかなか畑仕事は思うようにはゆかない。そのような中、昨日午後畑に行った、私ひとりであった。かなりぬかるんだところもあったが、かろうじて何とかマルチに穴をあける単調な仕事を、5時過ぎまですることができた。

畑時間と、声出し時間、基本的に一年半ほどこのような暮らし、自分でいうのもなんだが実に充実した日々が送れている。
つくずく日本語を大切にしたいものです

それもこれも、すべては過去の経験が下支えしているからこそなのだと、思い至る。

十二夜という芝居には、運命という言葉がやたらに出てくる。妻と出合ったのも運命。命を運ぶ器である人間。

登場人物たちは、何かわけのわからない感情に突き動かされながら、うわ言のように言葉を喋り捲る。

年齢的に私には、そのような人生の季節はとうに終わったはずなのに、いったいどういうことであろうか、いまだに、ときにうわ言状態に陥る自分を持て余してしまう。

若いとかそういうことではなく、生来的にご先祖から、父や母から受け継いだものであるから、あるがままになるように、五十鈴川はゆくというしか、言いようがない。

ようやくにして、すこぶる自由自在な人生のひと時が、訪れている今の暮らしを実感する。経済的な大変さは、十八歳の時から経験しているし、当時の大変さに比較したら比較にならない。

だからなのだと思う、漸くにして書ける、満ち足りていると。今しばらくののち、万が一私がお祖父さんにしてもらえたら、もう思い残すことはないという心境になるのではないか。

だが、人間の業は深い。きっと私もそのような、いい意味での業を引きずりながら老いてゆくような気が今はする。

ところで、このところ実に体調がいい。きっと体を動かし声を出し続け、母や妻が育てた野菜をふんだんに食べているからだと思う。

この数か月、私は毎日のように何らかの形でネギを食べ続けた。(理由は私のブログを読んでくださっている方はお分かりだから説明は省く) そして思う。あらためて命をキープする食べ物の大切さを。

岡山にやってきて二十三年母が菜園場で作った野菜をほぼ毎日のようにいただいているが、おそらく私が元気なのはそのせいだと、母には感謝の言葉しかない。

ささやかに、感謝のお返しに先日母の家のネギをふんだんに使ったカレーを私が作り、母を招いて 夕食を共にした。

美味しいおいしいといってくれる母に、私は胸の中で、わが家族がいい感じで穏やかに暮らせるのは、すべてあなたのおかげです、とつぶやいた。

いままで出会った人で、ありがとうをこんなに普段の暮らしの中で使うひとにお目にかかったことがない。この人の娘だから、妻もよく使う。いつしか私も感化されずいぶん使える自分がいる。

シェイクスピアなど読んだこともない母だが、その母から学ぶことは年を重ねるにつれて増えてきた。今は面はゆいので書くことは控えるが、いまとなっては、たった一人の親である母との時間をこれからは大切に過ごしたいと 思う。

2015-04-07

遊声塾を立ち上げて二年、かすかに何かが見えてきました。

今回の遊声塾の発表会、個人的に私が案内を出したのと、近しい方にチラシを配布したくらいのPRしかしなかった。

それでも30名近い方々が、駆けつけてくださった。塾生の家族や知人と、私の友人と岡山でこれまで企画したことで知りえたまれな感性の持ち主の方々である。

そのなかで、妻と娘、神奈川の横須賀からわざわざ駆けつけてくれた親友K氏、香川から来てくださった I氏、福山から来てくださったOご夫妻、ちょっとした誤解で疎遠になっていたS氏、20年ぶり再会したT氏等々・・・。

オーバーだが、私が還暦後かなり意識的に生き方も含め、変化し続けているなか、私にとっての大切な方々のかなりの方が来てくださった。

このなんともはや、忙しいそして お花見の季節にである。私はこれまでかなりのイベントを企画してきたが、観客とはうつり替わりゆくものである、という認識を持っている。それが自然である、そして私もまた移り変わっていく。

何度も書いているが、3・11以後、何かが私の中で壊れ、私の中で本当に大切な人たちとの時間を、可能な限り自分に正直に生きてゆける時間を、と私は半ば頑固なくらいに、自分に課しているようなところがある。(これまでの交友関係が続かなくなっても)

私はかなり反省している。でないと、またもや易きに流れ、取り返しがつかないような愚を犯してしまいそうな気がするのである。そこまで、かたくなにならなくても、との声も聞こえる。

畑で野菜を育てたり、何かを企画したり、私がシェイクスピアの私塾を作って、自分にある種の負荷をかけるのはなぜかと、時折自問自答する。理由はいろいろつけられるが、いまは書く気もしないし、書いても短いブログ時間では、思いを伝えきれない。

ただ一つ言えることは、そんなに安穏とは生きられない時代が、ひたひたと押し寄せてきて来ているという危機感である。野坂昭如氏は毎日新聞連載、七転び八起き、の最終回(200回目)、思考停止70年、で書いている。

敗戦から何を学んだか、原発事故から何を学んだか、安倍首相悲願の憲法改正は日本を破滅に導くだろうと、戦争というものは気づいた時には始まっていると。

(だからどうしたらいいのかは、各人が自ら責任をもって考える)
 
だから私は初めて得たといっても過言ではない、還暦後の限りなく初めての人生自由時間を、これまでやりたくてもできなかった、家族をはじめとする、身近な大切な人たちと暮らしてゆきたいのである。

生来の九州人 的な楽天気質の私は、ことさらに悲観してばかりいるのではない。私塾を立ち上げることで、これまでの自分とは決別し、新しく再出発したいのである。

乗り物などなく、ただ歩いて日々を送っていた先人たちから学びたいのである。見つけようと思えば、見つかるということを私はこれまでの人生で学んできた。簡単にあきらめるのは、もったいない。

今回の発表会で私はそのことをあらためてはっきりと学んだ。身を捨ててこそ、なりふり構わぬ中からこそ、なにかがにわかに立ち上がってくるかのような感覚、それは棚から牡丹餅のようには落ちてこない。自分で手を伸ばして掴み取らなくては。
 
 まずは私にとっての大切な方たちとの自由な人生を最優先、かろうじて平和ないま、やれるときにやれることを悔いなくやっておきたい。

ところで、発表会の翌日、西川の私のお気に入りの場所で雨上がり親友のK氏と二人きりで桜吹雪の中のお花見をした。出会って35年途切れずの中、私が人生で最も困難な時もいつも影のように、寄り添ってくれた友。

人生の友が発表会をほめてくれた。とりあえず現時点での万感の思いに私は心身が満たされた。

2015-04-06

シェイクスピア遊声塾、第2回発表会を無事終えることができました。

一昨日、シェイクスピア遊声塾の第2回発表会を、薄氷を踏む形ながら何とか終えることができた。
Hさんが作ってくださったパンフレット、感謝します。

中世夢が原を退職した時点では、まだ塾を始める決意には至らなかったが、もうすぐ塾をたちあげて丸2年が経つ。

昨年、遊声塾第一回発表会を終えた後、塾生は3人となった。その後、私が農の仕事にかなりの時間を拘束されたり、娘が嫁いだり個人的に大きな出来事が重なり、遊声塾生は3人のままで推移していた。

私がとてもうれしかったのは、塾生の中からもっと多方面に働きかけて、塾生を増やしましょうという声かけが上がったことである。

私ももちろんその気でいたので、妻に簡単な塾生募集のチラシを作ってもらい、私自身も積極的に(半ばダメもとで)動き出した。

やはり動かないと駄目である、その効果は出た。 とにかく普段の遊声塾のレッスンを見学に来てもらっておうと考え、2月末に3人の方の前で実行したのだ。

結果、この3人の方が全員入塾してくださり、うれしいことは重なる。インターネットで募集のチラシを見た女性がこれまた見学に来て、その場で入塾を決めてくださり、3名から一気に7人に塾生が増えたのだ。

私のブログをきちんと読んでくださっている方は、この間の推移はよくご存じだと思います。この4人の方の突然の参加がなかったら、遊声塾の第2回発表会はどんな結末を迎えていたのかは、神のみぞ知るといった、ことになっていたのではないかと、時に小生暗澹、呆然 となる。

しかし、またもや私はこの年になっても、いろんなことを学べる自分自身を、ことのほかうれしく思っている。18歳から世の中に出て、いつも追い込まれると不思議と力が湧いてきて、その都度自分にとっての難局をかろうじて乗り越えてきたのだが、今回もまた、結果そのようなことになってしまったのだと、いま考えている。

苦難を乗り越えたときほど感動は大きい。いま、十二夜のマルヴォ―リオ のセリフのように、神よ感謝します、と虚空に向かって叫びたいような心持なのである。

ところで、塾を立ち上げた当初は、何しろ 三十数年ぶりにシェイクスピアを声に出すので、私自身が頭はさることながら、身体がすっかり錆びついていて、そのことが私をして少し躊躇させていたのだが、二年間シェイクスピアを声に出し続けていたら、徐々に二十代のころのような勘が動き始め
たのである。

自信とともに、塾生も増えて来て無事に何とか発表会を終えた今、次なる希望の展開がほの見えてきたかのような気がしている。それを実現するためにはまたもや険しい道を歩かなければならないが、生きている間のどのような道も、結局は険しいのだと覚悟を決めれば、道は歩けると私は信じる側に立つ。

シェイクスピアの言うように、終わりよければである。まだまだ終わりは先だが、真実の終わりに向かっての楽しい修業 を重ねるつもりである。

それにしても、思わぬ素敵な塾生に巡り合えた私は幸運というしかない。次の発表会に向かってこの面々との出会いの深まりを重ねてゆく稽古時間を大切に努力したい。

2015-04-04

春爛漫、発表会当日の朝のささやかブログ。

さあ今夜は遊声塾の発表会が行われますから、ブログを書いている余裕はまったくないのですが、忙中閑あり、何か書きたい私です。
おととい西川で稽古に行く前に瞬間一人花見をしました

昨日の朝は、発表会に来られた方のための拙文をブログで書き、A4に収まる形で長い文章を削って何とか、当日のパンフに織り込む拙文を書くことができ、正直少しほっとしている。

入塾したばかりのHさんが、ささやかに心のこもったパンフレット(今日完成する)を作ってくださったので、それに刺激を受けて拙文を一気に書き上げることができた。

人間の脳というか、記憶のひだはいったいどういうシナプスになっているのか、まったくもってわからない。

書くという行為によって、何かが紡ぎだされるように、記憶の糸がほぐれてきて40年以上も前の出来事も、つい昨日のことのようにさえ感じられるのは、不思議というほかない。

それにしても、確実に人生の残り時間が少なくなってゆくなかで、このような楽しい時間が送れているわが人生の今を、ブログという形でつづれるささやかなひと時は、至福だ。

それもこれも、つづりたいという情動が私の意識の水面下で流れ続けていて停滞ということをしていないからだろうと思う。

そのような生き方をやめないというとおかしいが、そういうことだと私自身理解している。自分にとって、矛盾するがつらくとも気持ちのいいことをやり続けるなかで、ある日何かが実現する、といったかのような。

この数日、疲れているはずなのに、珍しく遠足に行く前の子供のように、何回か夜中に目が覚めた。このようなことは私には珍しい。





シェイクスピアの作品には人生を肯定的にとらえ、祝祭性に満ちた作品が多い。晩年の作品は憂愁を帯びてくるが、十二夜は、油が乗り切ったころの傑作喜劇である。

現代人から見ればありえない途方もない展開 だが、なんともはや、おおらかですがすがしい。登場人物たちのセリフがこれまた浮いたよなセリフが多く、時に閉口するが、それもまた楽し、である。

現実から逃避するのではなく、芝居の中にこそ真実が埋め込まれているのだとさえおもう。よくもまあ、このようなある意味、嘘で塗り固めたような在りえもしない物語を書いてくれたものだと感謝する。

嘘に救われるのである。世阿弥は虚実皮膜の間といっているが、深遠なる言葉である。人間は現実時間だけでは、きっとおさまれる器ではなから、シェイクスピアはありえない物語の中に、真実を籠めたのだと私はおもう。

ともあれ、まだ35名の定員に、いま25名の申込みです。もしこのブログを読んだ方ご関心があれば、座布団持参でいらしてください。




2015-04-03

2015年、4月4日(土)シェイクスピア遊声塾、第二回発表会に来られた皆様に。

【十二夜】、これまでの人生で私は2本の素晴らしい舞台作品を見ている。もう40数年前のことである。でもいまだその時に受けた感動は、私の中で消えずに生きている。

一本はまだ二十歳前、文学座の十二夜、出口典夫演出(のちにこの人の劇団シェイクスピアシアターに入ることになるなんて考えもしなかった)。

もう一本は、ロイヤルシェイクスピア劇団の十二夜、演出はジョンバートン。 日本語と英語(原語)で見たわけだが、印象はまるでことなっていた。だからこそ面白い。

本家の十二夜は、格調高く気品があり舞台のセット、衣装俳優たちの演技、すべてが素晴らしかった。先に日本の十二夜を見ていたために内容、展開はよくわかっていたから、十分にお芝居を楽しめた。(ヴァイオラを演じたジュディ・デンチの演技が素晴らしかった、今も脳裏に浮かぶ)本質的な異文化との出会い。

だが、若かった 私には翻訳された日本語による十二夜の方が数段面白かった記憶がある。それはよくわかる日本語(言葉)であったからだと、やはり思う。

いまの私の年齢で、この二本の舞台をみたらまた全然異なる見解が生ずるだろうことは明らかである。それほどにシェイクスピアの作品群は見る年齢でどのようにも乱反射し、見る人によって千差万別の楽しみ方が可能なのである。

さて、遊声塾の十二夜に関して。あれから40数年の歳月を経て、まさか自分が私塾を立ち上げて十二夜の発表会を(ができるなんて)やることになる、なんてことは思いもしなかった。

それも四人は入塾したばかりの塾生とともに、無謀この上ないことは十分に承知している。そこまでしてなぜにやるのかを、私の拙文で説明することは野暮なことである。

 言葉、言葉、言葉で劇的宇宙を構築するシェイクスピア世界を、現代の我々が声に出すと、いかに我々の肉体言語が貧弱になったのかを思い知らされる。

私自身声を出す器である要の体が、息も絶え絶え悲鳴を上げるのである。シェイクスピアの洪水のように繰り出される言葉の前に沈没する。

我ながら無謀なことをやっているなあ、と何度も痛感する。だがいまだ、あの憧れの 名セリフを生きている間に声に出しておきたいという、見果てぬ願望(煩悩)はやまない。

このような無謀な塾に、月謝を払って入塾してくる人がいる。そのことがまた言葉にはならない形で私を熱くさせる。(塾生は私にとっては夢を追う無謀な仲間である)

 十二夜のオリビアのセリフだが、【人間は自分で自分を思い通りにはできない】とある。【なるようになるのが道理なら、それに任せるしかない】と、今の私もそれに似たような心境である。

人間は老いる器である。だからこそ素晴らしいのである、という認識の側に私は立つ。アンチエイジングには私はアンチである。老いが無残な形でニュースになる現代という時代に、一滴の声を放ちたい、と思わずにはいられない。

電気も、電話も、車も、電車も、あらゆる機器も、利便性のかけらもない時代の肉体がダイナミックに躍動するシェイクスピア作品群は、闇の中から現代を照らし、私に今を生きる勇気を与え、血の沸き立つ言葉を放っている。

W・シェイクスピアが劇世界に込めた、人間についての想像力あふるる言葉にすがり、充実した晩年ライフを若い方々とともに見つけるべく、【想像力】という神から与えられた宝を、今しばらく磨き続け、そのための楽しい努力を仲間と模索し続けたいのだ。

バーチャルに(引きこもりがちに)文字を見て黙読するのではなく、身体で声に出して歌う。子供はお砂場があれば何もなくても退屈しない、私も含め、大人はおおかた子供時代を忘れがちだ、何故か?私は悩む。

ハムレットのように、敢然と自分自身と対峙する 力(勇気)がであるのか、ないのかそれが問題だ。

ウイリアム・シェイクスピアはあらゆる意味で、私にとって無数の万華鏡のような 作品を書いている。本の中に眠っている言葉を遊声塾の面々と掘り起し、今を生きている声をささやかに吹き込みたい。

入ったばかりのHさんが、ほんわかとした人柄のにじみ出る発表会パンフを作ってくれました。

こんな真夜中にブログを書くことは極めてまれだが、63歳なのに体がほてっている。木曜日なのだが二日連続で遊声塾のレッスンを終えて帰ってきたばかりだが、どういっていいかわからないくらいの幸福感が体に押し寄せているのである。
我が家の小松菜の花

帰りの電車で、体を冷やすために飲んだいっぱいの缶ビールが、心地よく体の中を動き回る。ブログはほとんど朝書いているので、真夜中寝る前に書くなんてことは、まずほとんどない。

朝書いてもいいのだが、何やら今書きたいのである。疲れているのだがいい年なのに書かずにはいられないというか。

 それもこれもきっと感動したからなのだ。入りたてのHさんがたった一日で、当日の発表会の見開きパンフを作ってくれたのである。

意外なことが起こるからこそ、私は生きているといってもいい。明日も今日と同じような人生がいいひとも肯定する。だが私はそればかりではつまらない。何か自分がアクションを起こすことで、未知なる意外な展開が起こるそのことこそが、贅沢なことである、と私は思うのである。

 いま、Hさんが作ってくれた心のこもったパンフを傍らで眺めながら書いているのだが、なんともシンプルなのに、あったかい人柄が醸しだされていて、ただ単純にうれしいのである。

十二夜、無謀朗読会に 入りたてにもかかわらず多面的に遊声塾の発表会を盛り上げてくださる人との出会いの妙、言葉がかすむ。

ともあれ、四日の発表会は明後日であるが、今日の稽古で私の中では稽古はほぼ終わり。明日は虚心に十二夜をもう一度、個人的に稽古し明後日の本番を塾生と楽しむつもりでいる。

春の宵闇、西大寺の駅をに降り立つ、空には美しい丸い月、学芸館の桜並木を眺めながら一人お花見しながら歩いた。

発表会が終わったら出会ったばかりの塾生たちとお花見としゃれたいものだ。

2015-04-02

遊声塾の仲間と生きた声を探す神聖な時間。

4月1日、昨日の夜シェイクスピア遊声塾に入ったばかりのYさんが、十二夜のト書きを読んでくださることになり、私も含め六人でのレッスンを何とかおえた。(五幕の途中まで)

すれすれの感じで発表会まで、あとわずかの時間しかないことを思い知らされている。入塾してひと月にも満たないのに、いきなり発表会にかり出された塾生の 心中を思うと、ちょっとかわいそうである。

しかし、私はあえて参加してもらうことにした。後年この経験はきっと忘れられない出来事として記憶に刻まれることになると、確信する。

全員でのけいこは、三回しかできずに本番を迎えることになるが,聴きに来てくださる方々にはかなりの忍耐を強いられることになるかもしれない。繰り返し寛容な心持、不出来な娘や息子の発表会に出かける気持ちできてください、とお願いしたい。

主催者の私は、いたって能天気にこの発表会を、勝手に楽しんでいる。入りたてのほやほやの塾生との稽古は楽しい。苦しいけれど楽しいというしかない時間を過ごしている。

あらためて、シェイクスピアの言葉に生命力を吹き込むことの難しさを声に出せば出すほど思い知らされる。うーむ大変だと体が悲鳴を上げる。

でもこんな経験めったやたらにできることではない。ともに声をだす仲間、共通感覚を 持てる仲間が増えたことが、稽古場の空気をかくも柔らかにする。

その嬉しさが、私をしてシェイクスピア作品の巨大な山に挑ませる。なんとも挑みがいのある作品であると思い知らされるのだ。

挑んでも挑んでも、跳ね返される。でも面白くかくも楽しいのだ。時折思いもかけない声を出している自分に気づくがこの瞬間こそがシェイクスピアを声に出して読む醍醐味である。

各人の声のぶつかり合いで、まるで千変万化する作品の面白さは、なんとも想像力を刺激してやまず、初老の私の体を活性化する。生きているとは?生きた声とは?
いまが満開の我が家のボケの花

まさに、人間は生まれて初めて息を吸い声を出し始めてから、息を引き取るまで声を出し続ける生き物であると、あらためて思い知らされる。

可能なら今しばらく、跳ね返されても、シェイクスピアを声に出して、自分自身を磨き続ける情動を持続したい。他者に声をさらけ出す中できっと思わぬ何かが立ち上がる瞬間を塾生と共有したいのである。

きれいごとだけでは味わえない、それは生きているからこそ味わえる神聖な時間なのではなかと、最近私は稽古場で考えている。

遊声塾を立ち上げなかったら出会うことはなかったに違いない仲間たちとの時間は、 宝石の時間である。