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2024-07-31

9月から4ヶ月、秋のターム、シェイクスピアのハムレットの音読講座を月2回やることにしました。

 お休みは今日まで、明日からは8月、肉体労働に復帰したらのんびりと五十鈴川だよりを打つ余裕は減るので、短い夏休みの老人の一日ををいとおしむかのように、タブレットに向かうわたしがいる。はやい話、五十鈴川だよりを打つのが好きなのである。

猛暑を忘れるほど学ぶのは楽しい

今朝もお休みの日のルーティン朝ワーク、裸足散歩から戻ってきての五十鈴川だよりタイムである。大地の上をわずかな時間裸足で歩いただけで、足の裏がジンジンシテ気持ちがいい。老人の私の足であれ、小石で刺激を受け血のめぐりがよくなっていることが実によくわかる。

熱中症アラートとか、水分をこまめにとかの御注意を聞かない日はないといっても過言ではないが、あくまでも個人個人で考えて責任をもって行動すべきことはいうまでもない。ただ私の場合はあくまでも、自分のからだのあんばいを量って、無理はしないけれど、あくまでも気持ちが良い程度のなかでやれるルーティンからだ動かしを、年相応にやっているだけである。何よりもリズムよく一日を過ごすための方策としての、裸足散歩をはじめとするルーティンなのである。

ところで、話は変わるがシェイクスピアのハムレットの音読レッスン、休んでいたわけではないのだが7月に入ってのあまりの暑さに、公を対象にした、募集をかけてのレッスンは秋から始めることにし、個人レッスンのみ、わたしがやれるときにやることにしたのだが、8月3日午後瀬政氏からレッスンの希望が入ったのでもちろんやることにした。

マンツーマンでのレッスン、ひとりでもふたりでも10人くらいまでならほとんどやることは変わらない。相手の人柄をふまえて自然とレッスンをするだけである。9月からはシェイクスピア作品を読んだこともないヒト(もちろん読んだことのあるかたも含めた)主に熟年層を対象にした、月2回のレッスン講座を秋4ヶ月、来年春4ヶ月やることにした。私自身声が出る間は続けたい。

長女に私の思いを伝えたらすぐに簡単なフライヤーを作ってくれたのにも背中を押された。あちらこちらでカルチャー講座がおこなわれているご時世、シェイクスピアというと未だ敷居が高く、多くの参加者が望めないのは重々承知しているが、だからといって手をこまねいている必要は全くない。71才で初めてシェイクスピア作品を手にし、月に2回くらいのレッスンなら参加したいといってくれている瀬政氏の存在にも背中を押された。

60才以上、もちろん以下でも全く構わないのだが、この大空の下にはどのような可能性を持ったかたが存在しているのかわからない。アクションを起こさない限り、出会うことはない。未知のシェイクスピア作品に、瀬政氏のように意外性に満ちたご仁が存在しているかも知れないではないか。

私の声が出ず意欲がないならともかく、自分で言うのも気が引けるが、この猛暑の最中であれ元気に音読リーディングができているし、もっと言うならば、シェイクスピア作品のリーディングが、大きな声は出さずともますます愉しくなってきてる、のだ。

それは、これまた自分で打つのも気が引けるが、年齢と共にそれなりの日々の経験値の積み重ねが、シェイクスピア作品のリーディングにまったく無駄なく活かされていると感じるからである。でなければ募集をかけレッスン料をいただいてまでのアクションは無理である。

やるのかやらないのか、ハムレットのように私は自分に問う。青春とは何か、ヒトはなぜ恋するのか、ヒトは何故争うのか、成功とは何か、幸福とは何か、仲間とは何か、友情とは何か、家族とは何か、戦争とは何か、老いをどういきるのか、、、、。あらゆる問い、この世にせいを受けやがて迎えるこの世のすべてとのお別れ、死まで。シェイクスピアは問う天才である。

シェイクスピアの宝石のような作品群の、傑出した登場人物の珠玉の台詞を共にリーディングし、ひとりでも多くのヒトがシェイクスピア作品のファンになってほしい。それが老いてなお私にアクションを起こさせるのである。

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