暑い日が続いている。この数年、いやもっと前から酷暑の夏、災害の夏が続いている。すでに何度も打っているが、毎年この夏を肉体労働をしながら乗りきるための方策のようなことを自分なりに考えて過ごしている。(お陰さまで元気にうだる夏を過ごしている)
7月の労働は一昨日で終わり、昨日から夏休み気分で過ごしている。こう暑いと小さな旅にも出掛ける気がしない。そういうわけでちょうどパリオリンピックが始まったので、関心のあるスポーツだけ、集中して見るようにしておかないと私の夏休み時間はあっという間に過ぎてしまう。
話は変わるが、私は相撲が大好きである。今日は千秋楽、昨日照ノ富士が2敗となり優勝の行方も結びの一番までわからなくなったので、楽しみである。私は小さい頃から虚弱体質で、スポーツとはまるで無縁、団体競技などもほとんどしたことがない、スポーツ音痴なのだが、どういうわけなのか見ることは大好きである。
とくに相撲は番付があり、白星と黒星では、ときに天国から地獄へという表現があながちオーバーではないほど、厳しい競技、非情である。10番勝てなかった霧島は大関から陥落する。貴闘力も来場所10番勝てなかったら大関の座を失う。常に痛みや試練が付きまとう。相撲ほど怪我が付きまとう競技を私は他に知らない。もちろんラグビー他、怪我と隣り合わせのような競技は多いけれど、長くなるからはしょる。
変な表現だが相撲にはやや残酷な美を感じる。スポーツにかぎらず、人間がこの世で社会生活を営むという行為は、どのような仕事に従事していても何人も己との戦いという宿命からは逃れられない。とくにスポーツ選手は常に極限まで己の肉体と対峙しながら戦う。(なまくらな私などの想像を越えた世界を生きている、だから力士や本物のアスリートを私は尊敬している)
話を相撲に戻すが、怪我も含めあらゆる修羅場を己の体で経験し、幕内の上位まで上り詰め、天から授けられた肉体ひとつ、まさに体を張ってしのいでこられた、数々の名力士をこの年齢まで見続けられていることは幸せなことである。(気分が沈みがちなときに、今もだがどれだけ勇気づけられ励まされていることか)
相撲の世界では修羅場をくぐってある境地に達し、一気に強くなると、俗に化けると表現する。顔つきも厳しくなり動きひとつにも落ち着きと、ある種の覚悟を決めたもののみが放つオーラのようなものを感じる。(あの丸い土俵は日々戦場である、そこからは逃れられない)
横綱だけの、綱を張ったものの放つオーラももちろんすごいのだが、恵まれた体格や反射神経を持ち合わせてはいなくても、個性が際立つ取り口で見ているものを唸らせる、感動させていただける力士がいる。今場所で言えば宇良とか平戸海とか若隆景、翠富士とかが私のご贔屓である。
小さい力士が大きい力士を技能と根性で立ち向かう姿に、よしんば負けてもその心意気が、私の胸を打つのである。愚直なまでに一生懸命相撲をとりきる姿、そこに打たれる。潔く明暗の別れめに殉ずる。一人横綱の照ノ富士は大関から怪我で序の口まで落ちて、そこから再び横綱まで上り詰めた。膝に爆弾を抱えながら、必死に横綱の責務を果たそうとする姿に打たれる。
蝉時雨・一瞬の夏・パリ五輪 |
どのような人生を送ってこられてきた方でも、試練の訪れなかった人というものは皆無であると思う。スポーツといえば、やはり黄金期は若いときに集約される。その肉体がピークの黄金期にしか放てないオーラがあると思う。勝者とは医者、明暗は非情、ときに残酷である。
またもや話は変わる、パリオリンピック始まったばかり、メダルの数などには関心がない私である。やり投げの北口選手や、柔道、体操、レスリング、陸上競技他、ほとんどお金とは無縁のよくは知らないスポーツ競技をこそ、名前を知らない若い選手たちの輝きをこそ見届けたいし、同時代共に生きて競う異国の宝石のようなヒト、選手たちの輝きをこそ見届けたいと思う老人の私である。
賛否両論、政治、国家間の思惑を暫し置いといて、様々な問題を秘め抱えながら祭典は始まった。何はともあれ100年以上の歴史が刻まれた祭典が無事に終わることを、日本の片隅に生きる一人の老人として祈らずにはいられない。
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