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2024-07-21

わずかな日々、老人自炊生活を送りつつ、妻への感謝に思いを馳せる猛暑の夏。

 妻不在で2日ほどをつつがなく過ごして日曜日の朝を迎えている。次女のところにステイしている妻からは、孫の葉くんと、たぶん井の頭公園で愉しそうな写真が送られてきた。

親友がプレゼントしてくれた

私のことが心配なようすだが、案ずることなにもなしである。今朝も(洗濯は昨日したので今日はなし)メルや花の世話をし、買い物も涼しい内にすませ、(買い物の途中運動公園により平均すると週3回は続けているルーティン事も)簡単に掃除をし五十鈴川だよりが打ちたくなった。

わずか5日ほどなのであり、孫が授かってからは、これまでも度々経験しているのでもうすっかり慣れてはきているのだが、(俗にそうこうの妻などというが)このままずっと一人で過ごすということになると、ということなども、やはりこの年齢だからこそ、普段から考えながら生活を送らねばならないとの、ある種の覚悟というとオーバーだが、まあそういう考えたくはなくとも考えねばならない摂理を殊勝に感じる、私がいる。

明らかに老いてゆく準備を、考えられるときに、五十鈴川だよりをうちながら考えてゆく構えを養わないといけないとは思う。だが人間とはいいかげんなもの、とくに私はそうである。たぶんぎりぎりまで、いいかげんに生きてゆく、そのような絶対矛盾をいったり来たりするのではないかという気が、今はしている。

話題を変える。さて、今日も3食自分で簡単な調理をする。すでに金曜日から6食を朝昼夜と自炊している。作ったものは、お昼はとにかく野菜たっぷりの、ラーメンとスパゲッティ、朝は妻特製の具だくさんのお味噌汁、納豆、目玉焼き、海苔、バナナ、ヨーグルトにご飯かパン。夜は肉野菜炒めや、ふるさとの干物、アスパラガスを焼いたもの、等々老人なりに工夫してこなしている。

決まりきったかのような献立の繰り返しなのだが、基本は有り合わせの、小さい頃から食べてきたものに限りなく回帰している。そして何よりもお腹がすくのが何よりも美味しくいただくコツだと心得ている。この猛暑のなか今のところ食欲も普通なので、日々それをキープしてゆくだけ、極めてあらゆることが私はシンプル、単細胞なのである。そして想う、最後に食物をいただけることへの感謝である。

何年も何年もの繰り返し。作って後片付け、掃除洗濯買い物、ごみだし、水やり、等々、人一人生きてゆくだけでも、この身の回りの生活雑事をきちんと一人前にこなせないと、たぶん人として未熟の烙印をおされてしまうのではないか。一事が万事に通ずるのはいうまでもない。

丁寧に、出来るだけ丁寧に老人なりに工夫して日々を生活する、それが出来ることの平凡な喜び、諸事が億劫にならないように、なるだけ自分でやれることには、自力で事がなせるようにしなければと、妻不在の日々に思う。

PS 今日の写真は、先日の上京で河合さんが私にプレゼントしてくれた本である。猛暑の夏、涼しい部屋で今日は、めったに手に出来ない本を静かに読みたい。

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