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2024-07-17

7月17日水曜日、東京家族訪問旅雑感、岡山に帰る日長女のリビングで打つ。

 東京家族訪問の小さな旅も、5泊6日充実した時間が流れ、今日の夕方には岡山に帰る。もう少しいたいくらい、後ろ髪をちょっと引かれるくらいのお爺気分である。極めて情が移りやすい日本的情緒老人男の私である。

レイさんとノアが学んでいる

今朝お別れに、ノアをマンションから徒歩15分くらいの稲城市立南山小学校まで送って行ったのだが、ものすごい勢いで成長しているノアとのお別れがちょっと切なかった。

彼の部屋の二段ベッドの下で3日間密に過ごしたので、共に過ごしたもののみが持ちうる世代はことなるが男同士の関係性。暗黙の親しくなる関係性を育むには、共に生活するしかないのだと、私はまた、あらためてノア君から学ばせてもらった嬉しさが、五十鈴川だよりを打たせるのである。

昨日は、終日雨で午後2時半、南山小学校までノアを迎えに行き、一旦荷物をマンションに置いて、その足で稲城の隣の駅青葉台の大きな書店まで、ノアと二人で、小学校一年生のための漢字やひらがな、算数、英語のドリルをどしゃ降りの中買いに行った。

その大きな素敵な本屋はちょっと駅から離れていて、折からのかなりの激しい雨で、二人とも膝からしたがずぶ濡れになった。大人は濡れると気持ちが悪い等々、ネガティブに考えがちだが、わが孫はそのようなことは全く気にしない。雨にも負けず、風にも負けず、雨を楽しみ、風を楽しみ、力強く小学校一年生の今を彼らしく生きていて頼もしく、そのような姿がいじらしく、お爺としてはついノアのお気に入りレゴが買ってやりたくなる。

当たり前のことなのであるが、私の小学校一年生の時とは隔世の感の時代をノアは生きている。端から見ていると大変そうであるが、私は安心している。どのような時代に生まれようが、自分の足で一歩一歩歩いてゆく宿命からは何人も逃れられないのだから。一日一日があっという間に過ぎてゆく、せわしないこと極まれるといったあんばいの世相のなか、一年生になったばかりのノアは懸命に生きているのが伝わってくる。だが辛そうにしていない。

一月前から空手の稽古にも励んでいる。自らやりたいと言ったのだそうである。詳細は割愛するが習い事がこれで3つ。爺としては多いのではと心配になるが本人がやりたいのだから、両親にお任せ、余計なことは一切口にしない。お爺の役割とは何か、認知機能のキープのためにも五十鈴川だよりを打ちながら考えねばならない。

打っていると脳が活性化、水溜まりでわざとスニーカー👟をバシャバシャ、しぶきを飛ばして遊び興ずるノアがいる。愉しいことには理由がない。プレイヤー、天真爛漫自由自在である。その姿を見ていて爺は考え想うのである。幸福とはいったい何なのであろうか。

ノアとのつかの間、瞬間の幸福が老いたからだに包まれた。(間もなくオリンピックが始まるが、少なくとも頂点を極めることだけが人生の目的ではないとの側に私は立つ。ノアを含めたわが孫たちには、あくまでも自分と言う唯一の存在を耕し、他者に思いを馳せ共に、つましくも面白く楽しい世界を見つけ、歩んでほしいと願うだけである。水溜まりがないと、今しかできない水遊びはできないのだから)

今回の東京家族訪問小さな旅は、ささやか五十鈴川だよりでは記しきれないほど、実りの多い小さな旅ではなく、大きな旅になった。長女家族、(今もそばで娘はリモートで仕事をしているレイさんは仕事に出掛けたが半分は在宅での仕事である)次女家族両親共に必死に働き、懸命に助け合って子育てしていた。見届けた私はまたもや幸福感に包まれる。そのありがたさを最後に一行打っておきたい。


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