ページ

2024-08-04

うだる夏・沙翁(シェイクスピアのこと)音読・老いをゆく、八月最初の五十鈴川だより。

昨日午後、瀬政さんと我が家のリヴィングで、 この夏2回目のシェイクスピア音読個人レッスンをした。午後2時過ぎから5時近くまで、休憩や雑談をはさみハムレットの3幕と4幕を二人で交互に音読した。

うだる夏・裸足散歩で・老いをゆく

瀬政さんは71才にして初めて、今年の3月23日から、松岡和子訳のシェイクスピア作品に挑んでいる。(間違いの喜劇・ロミオとジュリエットに続き3作品目である)もう何度も五十鈴川だよりに打っているので割愛するが、その果敢なアクションには正直、驚かされている。おおよそ氏とのこれまでの交遊では考えられない、といっても差し支えがない。

だが昨日のレッスンでも感じたのだが、氏の本気度はかなりのものである。ピアノやその他の習い事では個人レッスンはあると思うが、シェイクスピア作品のリーディングを個人レッスン、我が家に来てまでやりたいというご仁は、この岡山の空の下ではやはり少数者の極致である、と思う。

本人ではないからもちろん何が氏を駆り立てているのかは私にはわからない。だが事実として続いている。氏のなかに眠っていた情熱の炎が、何かの偶然のタイミングで噴火したのだとしか思えないほどの、私にしてみれば青天の霹靂とでも言うしかないほどの意外性、ありがたさが私を包むのである。

氏の情熱の本気度は小生にも伝わるからこそ、私も真夏の老いのみには堪える暑さのなかでのレッスンを引き受けている。マイスターに聞けの企画をなんとか終えて、自分のなかに明らかな変容がまたもや起きて、専門的な細かいレッスンもさることながら(細かいレッスンをしないというわけでは、もうとうない)まったくシェイクスピア作品を読んだこともない、まさに瀬政さんのような方とのレッスンが、私にこれまではやれなかった(感じなかった)新しい可能性の扉が拓けるレッスンがやれる気がしてきたのである。

長い交遊の河合さん、そして瀬政さん私をいれて3人もいれば、とりあえずは十分である。3人いれば文殊の知恵ともいうではないか。岡山シェイクスピアリーディングカンパニー、なんとも立派な名前だが、何でもやれるうちにやり、無理が利かなくなったら潔く手放すのである。でもやれる間はベストを尽くす。これが今の正直な心境である。

さて、昨日のレッスンでいろいろ感じ刺激を受け足ればこそ、五十鈴川だよりが打ちたくなるのだが、瀬政さんの音読には邪心が限りなくない。登場人物への余計な解釈や感情移入もほとんどない。登場人物の松岡和子訳の台詞をたんたんとただ音読するだけである。その事が私にはとても新鮮なのである。その新鮮さを説明することはできない。

いや、足りぬ言葉で言えるのかも知れないが、それを言葉にするのは野暮、愚か者のすることだという気がして気が進まない。世は主に若者たちの祭典パリオリンピック真っ盛り、かたや世界の片隅で、狂ったかのような暑さの日本の真夏の午後、ハムレットを老人ふたりが音読している。これだけで十分に演劇的である。愉しいし面白いではないか。

9月から始めるハムレットの音読講座、少人数なら家でもやれる。老兵は今だ死せず、面白くそっとリーディングするのである。今日夕刻にはフライヤーが届くはずである。

0 件のコメント:

コメントを投稿