昨日大阪、高槻で行われた、筑前琵琶の全国演奏大会日帰りで聴きにいってきた。はじめて筑前琵琶を聴いてから6年になる。きっかけは新聞記事で筑前琵琶の人間国宝、奥村旭翠さんを知ったことに起因する。(6年前の3月、私ははじめての孫に恵まれ、コロナ渦中の3年前二人目の孫、昨年は3人目、はじめての女の子の孫が授かった、生きていることはただそれだけでありがたく、奇跡的なまでに充分である)
祈りの筑前琵琶で生き返る猛暑の夏 |
あれから6年コロナ渦で聴けなかったとき以外、よほどのことがない限り、案内状が届いたら何はともあれ出掛けるようにしている。今年は春にも出掛け2回目である。なんだかとりとめのない一文であるが、ままよこのまま打ち続ける。
猛暑続きの狂ったかのような夏の最中、ちょっと出掛けるには正直躊躇したのだが、結果は出掛けて大正解という以外にない奥村旭翠先生にしか醸し出し得ない芸の真髄のような演奏世界を堪能できたことの幸福感を一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。
筑前琵琶 橘流の全国演奏大会 第56回とある。第一部10名、第二部9名(ひとり欠席)。10時半開演、終演は午後4時。途中始めの頃、あまりの気持ちよさに何度かうとうとしたが、演者の生の力量と迫力が私を覚醒させ、長いとはつゆ感じることもなく終演までききいった。
北は東京、南は福岡までの参加者19名の方が、何十年にも及ぶ修練の成果を披露してくださるのをはじめて生で体感できたことの幸運を、いまはただ疲れている、この夏の老いたからだにムチ打ってきちんと打たずには入られない。
とりはもちろん、筑前琵琶ただ一人の人間国宝奥村旭翠先生である。もちろん直接お目にかかったことはないのだが、間接的になんどもお目にかかっているので近しい思いを一方的に抱いている。最後の一曲先生が語り演奏されたのは【茨木】という作品、素晴らしかった。
先生の素晴らしさは一言では到底語り得ぬ、すべていまの私をふくめた人間がなくしたというしかない、日本のうたかたの夢幻の世界がいまだこの世に残っているという現実に喜びに打たれるからである。人工知能AIインターネット世界の片隅で、体ひとつでこのような先人たちが芸術、自国の筑前琵琶の文化を守り伝え、その伝承に心血を注いでおられる、先生の菩薩のようなお姿をしっかと眼底に焼き付けた。
話し方、たたずまい、しぐさ他唯一無二、つま弾き語る。老いてなお、その醸し出す独特さは比類なく美しく、気品が香り、自然で優美、私は暫し釘付けになった。一言いいものに触れた、観ることができた幸福感が私を包んだ。その事さえ打てればもう五十鈴川だよりは充分である。暫し、年齢も猛暑も何もかもが消えたというしかない世界を堪能した。
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