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2024-08-29

狂ったかのような夏の午後、30数年ぶりにチェーホフ作品を汗を書きつつ読み頭を冷やす。そして想う。

 台風が近づいている。私のふるさと宮崎も心配である。こればかりは静かに過ぎ去るのを待つ以外にないが、あまりにもの台風の進む速度が遅く、長時間に及ぶ雨の量がものすごいので、さすがに心配である。少しでも被害が最小限ですむように祈るしかない。私のすむ岡山はいまのところ、風もなくさほど雨も強くはないが、夜半から雨が降り続いている。

翻訳家によって日本語が楽しめる

ところで、8月は昨日で労働バイトを終え、今日から4連休である。9月になれば酷暑もいくぶん和らぐのを祈るしかないが、この2ヶ月よくも老体の我が体が、悲鳴をあげながらも、なんとかこうやって五十鈴川だよりをうちながら元気に生きていることについて、今更ながら有り難いというほかはない。

暑さに我が体が絶えず反応し、汗がふきでる。自分でもよくもまあ、我が体がこの異常な暑さに耐えていることに、驚いている。正直いつまでこの暑さのなか、いまの労働バイトができるのか、まったくわからない。まるで念仏を唱えるように、一日一日、乗りきってきているだけである。

思考がままならないときは、ままならぬなりに五十鈴川だよりを打ち続け、労働した日は五十鈴川だよりは打たないようにはしている。自分なりのいま現在をしっかといきる、それ以外もうほとんど思考の及ばないような夏を、老人の私は苦行のように耐えている。

働く自分の姿を、俯瞰的に傍観者のように、カッコつけて打てば、修行僧のようにも思えるほどだ。汗が吹き出る我が体をどこかで労りながら(我がバイト先隠れ家には冷蔵庫がある)数種類のドリンクを飲む。そのうまさは汗を流したもののみが、味わえる特権である。命の水そのもの、冷えた水がやはりいちばん美味しい。生き物としての元感覚が研ぎ澄まされる。

人間だから気の進まない日もあるのだが、そこは若いときから様々な経験を積んできた過去の自分が、あらゆる知恵を現在の自分に伝授してくれる。過去の自分がどうやって乗り越えてきたのかを教えてくれるのである。私の場合生きているという感覚は、体を動かしているときがもっとも研ぎ澄まされる。そういう意味では限りなく動物に近い。

草刈り機のエンジンがかかり、無理なくのらりくらり体をゆっくり動かしていると、やがて体が動き始める。体とは不思議な器である。続けているとずいぶんはかどっている。音読ほかあらゆることに通じると想うが、好きなことであればやれるのである。多分このような酷暑の夏を乗りきることができれば、新たな老いのフェーズへとゆけるかもしれないとの、淡い個人的な希望のようなものの芽生えを感じる夏でもある。

ところでいきなり話が変わるが、この酷暑のなか、先日、30年以上読んだことがなかったチェーホフのワーニャ伯父さんと3人姉妹を浦雅春氏の新訳で読んだ。若いときにはさっぱり理解の及ばなかった作品だが、染み入ってくるように読める自分がいた。昼寝のあと、クーラーをつけず、風のない暑い部屋で窓を開け放し扇風機だけで、水分補給しながら、汗をかきながら読んだのだが集中して読めた。一言面白かった。

シェイクスピアとチェーホフ、よその国の作家である。シェイクスピアは400年以上前、チェーホフは150年以上も昔の作家である。いま、翻訳で読んでもなぜかくも染み入ってくるのであろうか。こまごまとした分析は控えるが、登場人物が他人とは思えないからである。まるでこれは自分のことである、とでも言うしかないほどに、登場人物の言葉が昔の人の言葉ではなく、現代人が抱え込んでいる魑魅魍魎複雑怪奇な切なさ、やるせなさ、出口の見えなさが、圧倒的詩情でもって、残酷なまでに描かれている。(と思える)人間の不条理、不毛さ、不可解さが。

だがしかし、私はチェーホフの作品に愛を(ほかに言葉がない)を感じる。1860年に生まれ1904年、わずか44才、肺炎で亡くなっている。私には到底想像の及ばないロシアの広大な大地が生んだというしかない天才作家。作品はすでに1917年のロシア革命を予感させる。その後の社会主義連邦国家となるも、1991年社会主義連邦国家は崩壊ロシアとなり、資本主義国家となる。あれから、33年の歳月が流れ、かっての同胞ロシアとウクライナとの間の戦争は泥沼化している。

老いてゆく体をどこかで慈しみながら、チェーホフ作品を読める間は、汗をかき、働き動き、読み続けたい。


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