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2024-08-10

肉体労働バイト仲間、K氏の娘さんの現代音楽のパフォーマンス演奏を岡山のギャラリー108で聴き、そして想う。

 バイト先で共に汗を流して働くk氏とは、もうまる2年以上共に働いている。昨年企画した多嘉良カナさん、今年6月企画したマルセを生きるでは、裏方として私を支えてくださっている貴重な方である。

いただいたご案内のカード

K氏は私とはまったく異なる人生を歩んで来られたかたで、私が今の肉体労働アルバイトをしていなかったら、まず出会うことはなかったであろう。一言私の印象は、誠実な仕事ぶりで私と違って寡黙な方である。余計なことはあまり発言はしない。信頼できる。

そんな氏に、音楽を学び続け、パリに留学している娘さんがいることは知っていた。この春からはスイスのベルンに居を移し、より新たな音楽世界を学び続けておられることも、聞くともなしに聞いてはいた。

そのような氏にとっての未踏の世界を目指す娘さんの、岡山でのギャラリーコンサートの案内葉書をいただいたのは7月に入ってまもなくであったとおもう。もうすっかり老人の私、夜出掛ける何てことは、古稀を過ぎてからはずいぶんと控えるようになったのだが、昨夜はK氏の娘さんの演奏会ということもあったし、めずらしく好奇心が動いたのと何よりも妻がゆくといっていってくれたのが嬉しかったことも幸いして出掛けた。さて、妻のことはさておき、K氏の娘さんの演奏を、昨夜岡山ギャラリー108で聴き、一言出掛けて本当によかった。

何故なのかを打つと相当長くなる、だから簡潔に打つが、音楽であれ、演劇であれ、美術であれ、およそアートと呼ばれるジャンル一言ではくくれない。その多様で複雑な世界の豊かさは、体感したものでなければ、言葉にしがたいのだが、あえて五十鈴川だよりの記録として打っておきたい。

Nさん(K氏のお嬢さん)の演奏曲目のなかにジョンケージの作品があった。驚いた。半世紀以上も前、二十歳くらいの頃私はジョンケージの名を武満徹(私がもっとも尊敬する作曲家)さんの本で知った。レコードを買って聴いた記憶があるのだが、ビートルズなどとはまるでことなり、それまでの人生では聴いたことがない類いのジャンルの音とでもいうしかない異次元に連れ去られるかのような闇を切り裂くような音が耳に飛び込んできて、一回しか聴くことがなく、その後今に至るも聴いていない。

だが、ジョンケージという現代音楽家の名前は強烈に記憶の淵に深く刻まれた。二十歳の若者は未知の世界への入口で、強烈なパンチを喰らったのである。あれから半世紀以上、ジョンケージはNさんをはじめとする現代音楽家たちに、今もなお燦然と影響を与え続けているのだと、思い知らされた昨夜のギャラリーコンサートライブであった。

知らないイタリアの現代音楽家の作品、即興演奏、(これがよかった、フリージャズとも共通する実力と遊び心がないと難しい、とおもえる)そして最後はNさんの作曲された作品、お話も含めちょうど一時間、Nさんのライブは一途な思いが静かに伝わってきて、ミニのギャラリーでの生音ライブ(繊細、耳をそばだて全身で聴く、生音の繊細な豊かさを堪能した)は、老人の私に改めて好奇心とは高貴心というシェイクスピアの言葉を思い出させた。意味もなく邪念なく出掛ける。偶然性のある夜の出来事はあくまでも自然に紡ぎ出される。

1970年当時18才、宮崎の田舎から飛び出した若者は、小田実の本【何でも見てやろう】を実践、卑猥なものから高貴なものまで、その時期の若者に与えられた青春時代の特権、何も怖いものがなかった。貧しく自由だけがあった。見たこともない、触れたこともない、嗅いだこともない、食べたこともない、ないない尽くし。背伸びし、手当たり次第猟犬のようにありとあらゆるものを体感しようともがいていた。(もがいたからこそ老人になるまで生きてこられた)そのようなもう普段はほとんど思い出すこともない青春のおき火のような記憶が、Nさんの演奏を聴いていたら喚起されてきた、のだ。

十分に老人なのだが、記憶の淵の青春が未だ生きていることを、どこかある種の青春のさてつ的気恥ずかしさと共に思い出されたのである。音楽とは気持ちよくさせるのだけでは全くない。Nさんの息から生まれてくる瞬間のサクソフォンの音は、限りなく自由に想像する力を刺激する。

この事はいろんなことを、私に示唆する。人間は相対的にやすきに流される。年を重ねれば嫌でも体は保守化する。感受性が弱まり紋切り型になる。感性が固くなる。いい音色Nさんの演奏を聴いていて改めて思えたことは、上手さを越え、今この瞬間をともに生きていること、わずかな聴衆と出会えたことへの感謝が、演奏への愛がにじみ出ていて、私は静かに打たれたのである。無理は禁物だが老いつつも遊び心を失ってはならないと、改めて感じた。小さくても大きな豊かさをいただけたライブ。いや小さいからこそ価値があるのだ。

広い意味で世界を変えてゆくのはいつの時代も若いかたたちである。オリンピックもそろそろ終わり、メダルの色ではなく、参加者の一瞬の輝き、人間の素晴らしさを見届け、感じる学ぶで老人でありたい。その一途なプレイ、即興で真摯に遊び、音の豊かさで世界の豊かさを伝えようとしているNさんの姿に、今をいきる私が五十鈴川だよりを打ちたいほどに感動したことを打っておく。

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