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2024-08-14

狂った夏の暑さのなか、荒俣宏著【福翁夢中伝・上下】を読む、そして朦朧として想う。

 お盆である。たまたま3ヶ月に一回は行っている定期検診(血糖が少し高め、以外はすべて正常値)から戻って来ての五十鈴川だよりタイム。だから今日は労働もお休みである。もう打つのもいやになるくらいの、老人の私に言わせれば狂ったかのような夏の暑さが続いている。

下巻から一気に引き込まれた

冗談ではなく、五十鈴川だよりを打って心身の調節をしないと、私の場合はきっとどこかが変調をきたすのは必定という気がする。それと読書があるから、この狂った夏を辛うじて乗り越えられそうな案配である。

熱中症アラートのなか、午前中だけとはいえ元気に働けているその事に、自分でいうのもなんだが、ありがたさに感涙にむせびそうである。

ところで、69才の3月23日に、私にとっての初めての大きな手術後、3月に一度検診をしまもなく3年と5ヶ月になる。でくの坊の私でもやはり命のありがたさを痛感して後、生活態度を改めて生活しているからというしかないのだが、お陰さまで猛暑の夏をなんとかヒイヒイいいながらも、生き長らえている。

もし本を読み続けるという楽しみがなかったら、たぶん地獄のような暑さのなかで、熱中症でこの世とはお別れしていたかもしれない、とおもえるほどに異常な夏だとおもうのは私だけではあるまい。この暑さのなかでは、読みやすい本を手にすることが多いのだが、今読んでいてまもなく読み終える、荒俣宏著【福翁夢中伝・上下】早川書房、は出色の面白さで、暫しこの夏の狂った暑さを忘れさせ、元気をいただいている。

小説はあまり読まない私なのだが、そして年と共に認めたくはなくとも事実として認めねばならない老人の私であるし、集中力の低下なども、この暑さでより進んでいる最中なのに、その事を失念してしまうほどに面白い読み物なのである。

この暑さで朦朧としている頭で、この本のユニークさと面白さを記すことは到底不可能なので控える。が、ヒトは出会うべくヒトには出会うという伝で都合よく考えれば、あらゆる本もその人生の渦中の今のタイミングで、やはり出会うのである、と思わずにはいられないほどにこの本は今を生きている私に刺激を与える。

福沢諭吉が生きた、成した幕末から明治の、まさに政体が根本から覆る無血革命文明開化時代の、有り様の全貌の一端が、著者渾身の方法でユーモラスに著述されていて、ぐいぐい引き込まれる。

特に私は翻訳された日本語のシェイクスピアのリーディング音読を、生き甲斐にしているので、あの時代に福沢諭吉がいかに庶民にもわかる新しい日本語を産み出してゆくのかに苦心惨憺するその悪戦苦闘身もだえする様は、無知蒙昧の老人の今の私を静かに感動の淵に沈めさせたといっても過言ではない。(これは私のことだが、なんとまあみみっちい日本人に成り下がったことかと、あきれどうしたものかと思案にくれる)

幕末から明治のあの激動期、なんと魅力的な日本人がわんさかいたのであるか、瞠目に値するとはこの事というほかはない。またしてもの無知を思い知らされているが、この本が入口となって、いよいよもって幕末から明治維新にかけて、もっと知り学ばなければならないことを、痛感する猛暑の夏である。

荒俣宏著のこの本、氏の博覧強記と柔軟な多面的筆致に随所で脱帽した。そして何よりも氏ならではの方法で従来の福沢諭吉像に新たな人間味を加え、今まさにこのような私利私欲を越えた燃え立つかのような面白くかつ偉大な人間が日本に存在したことを、物語として著してくださった偉業に心から脱帽し、五十鈴川だよりを打つものとして感謝の他はない。

猛暑の夏が去り、秋が来たら一人静かに慶應義塾大学の図書館に行ってみたい。元気な間、学ぶということに終わりなし、独学したい。

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