ぼーっと青空に浮かぶ様々な濃淡、筋状の雲を眺めていると、わが体から拙文が紡がれてくる、何よりも自由自在なわが小さき体が、今日も生きて在ることの感覚を研ぎ澄ます ことができるのは幸福である。
人間は不自由であるからこそ、自由になれた時がうれしいという逆説に成り立つ。おなかがすく身体があるからこそ、食事が美味しい。7年目の発表会、ロミオとジュリエットはきっと後年、あと何回発表会をやれるかはわからないが、遊声塾にとって節目の年になったといえる発表会となった。
わが頭は昨日から、ゆっくりと次に向かいつつある。雨上がりの夕方運動公園に行き、一人で声を出した。持参した作品はハムレット。というのは6月30日4回目の音読輪読会があるからである。
無名時代の蜷川演出を10代の終わり新宿で観れたことはおもいでの宝である |
何事も発案したら、実現実践しないとむなしい。いま考えてみると、思春期から思いついたり、考えたりしたことを、かろうじて平凡な生活の中で、いろんな方のお世話になりながら、非日常的な事に情熱を費やし、実現することを繰り返してきた、その過程をいまだ生きているというのが、わがささやかな人生なのである。(という気がしている)
夢を生きる獏という存在に近いかもしれないが、夢を自己実現するためには、現実のあらゆる困難に立ち向かう勇気がないと、まずは無理である。勇気というものはどこから生まれてくるのであろうか。そのことについて費やす 、書く時間がいまはないが、振り返ると18歳からささやかに自己実現を繰り返し自分を信じながら、勇気の持てる体を作り続けて今があるのではないかとの、思いである。
全く何の希望も勇気もないまま、私は世の中に飛び出た。あれから半世紀の時が流れ、確実に私は老いゆく渦中をさまよいながら生きている。親としての役割を何とか終え、さあいよいよこれから、どれほどの健康に過ごせる時間の余白があるのかは、神のみぞ知るというところ。や
もし、私が父の年齢まで生きることが可能だとしたら、あと十数年。よく生きるという言葉をよく聞くが、よく生きるとはどういうことか。そんなこんなややこしいことを、自分に問う勇気を持続しながら、声を出しながらシェイクスピアのコトバと格闘するおのれという存在を日々確認したい、もうただそれだけでもいい、との思いなのである。
あれもこれもはやれないし、一つだけに焦点を絞ってこれからは生きてゆきたい、のである。そういう意味で道半ばで終わる可能性が高いが、遊声塾の面々音読で出会えた方々とシェイクスピアの創造した魅力的な登場人物の台詞、コトバを日々声に出して、遊ぶことが私の老いらくの夢である。
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