朝起きてみるとお天気なので、五十鈴川だよりを書きあげたら、公園まで声出しに出掛けようと思っている。夜は稽古、それまでは発表会のための心身の充実に宛てたいと思う。
稽古といっても声を出し続ければいいというものではない。古き良きDVD作品を見たりして、精神のビタミン、気分転換に良き本の文字を書いたり、近所を散歩したり、昼風呂に入って体操したりと、私なりにロミオとジュリエットの稽古に向かう準備が必要なのである。
集中したら弛緩する。その加減の繰り返し、今回はとにかく役柄が変化に富んでいる。セリフの量は大したことはないのだが、2幕(も少し声を出すが)以外はほとんど要所要所でいろんな役柄を音読するので、気持ちの切り替えが実にこれまた集中を要するのである。
でも、音読を繰り返すことで昨日までは感じなかったような音というか、声がこの老いゆく身体からいまだ発せられる、だからこそ続けられているのだということが覚るのである、繰り返しの音読以外に私には方法がない。
こればかりは死ぬまで変わらないだろうという自覚があるが、自分でも何という不器用なキャラであるのか、時折自己嫌悪に陥りそうになるが、早朝のお天気の空に裸足で立つと、さあ、今日も声を発したくなるのが不思議である。(日向人的な単細胞人間である)
一度この方の本を読もうと思っていた |
きっとこれも丸6年以上継続してきたからこその、何かからのご褒美といえるのではないかと、大地の上で安堵し、声を出せる今を天を仰いで感謝する私である。
ハムレットは言う、【雀一羽落ちるのも神の摂理】と運動公園の木の葉一枚落ちるのも、季節が廻るのも、麦畑が色づくのも、万物が移ろいゆき果てに実りその命をいただけるのも神の摂理、なあんて殊勝な感覚がさえてくるのも、声を出すことで体の隅々に呼吸の深まりと共に、酸素が行き渡るからではないかと、おもえる。
無になってお経を唱えるかのように、魅力的な登場人物の台詞を音読し続けると、何やらの御利益があると、わが体が実感している。
きっと、大昔から人は労働し体を動かし、作物を育て、文字が書けなくても読めなくても、念仏を唱え歌い踊り、 きっと自分という存在と無意識の自己対話を朝日を浴びながら、星を眺めながら、夕日を浴びながらやっていたに違いないと確信する。
昔には帰れないが、この超音速デジタル社会の中で、いかに心の在り様のバランスをとって生きればいいのか、それは正直にわが体が喜ぶことにこそ夢中になる、以外に 私にはほかに方法がない。
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